4年前の2014年6月に亡くなった夫・塩谷治が、視覚障害者の世界に足を踏み入れることになったきっかけは、早稲田大学で同級だった真喜屋実蔵さんとの出会いだった。

沖縄出身の真喜屋さんは、9歳のとき、遊んでいた不発弾の暴発によって失明した。その後、12歳で沖縄盲学校の小学部1年に入学した。それまで、沖縄には盲学校がなく、できたばかりの学校に入学したのだった。父は、昭和20年、彼が6歳のとき戦死している。

その後、文学を学びたいという夢を持って、25歳で復帰前の沖縄から上京し、早稲田大学第二文学部に入学した。

しかし、当然ながら点訳された教科書などなく、じっと座って講義を聴いているだけの真喜屋さんを見かねた治は、何とか点字を覚えて点訳しようとした。もちろん、一人で何とかなるわけもなく、協力者を集めるために朝日新聞の「読者の広場」欄に投稿したのが、点訳団体「点字あゆみの会」の誕生のきっかけとなった。

 

治は、秩父高校を卒業した後、毎日新聞社に就職したが、大学で勉強したいという夢が捨てきれず、2年後に退職して、早稲田大学第二文学部に入った。生活費と授業料を稼ぐために、昼間はアルバイトに励んでいたから、点字あゆみの会の仕事とアルバイトとで手いっぱいとなり、それが原因で、卒業が3年も遅れたのだと、本人は弁解している。

点訳者が集まるだろうと思っていたのに、朝日新聞を読んだ人たちから「点字を教えてほしい」という連絡が相次ぎ、結局、点字あゆみの会は点字の勉強をする場となった。

だが、その2年後の1968年8月15日、真喜屋さんは29歳で自らの命を絶った。

私は1度しか真喜屋さんにあったことがないのだが、彼のことは、治からいろいろ聞かされていた。

彼が精神的に追い詰められていった原因の一つに、彼の生き方の不器用さがあったと思う。何か困ったことがあっても、人に頼まないで、じっと我慢している。勉強しようという夢を持って入学したものの、教科書も参考書もない。誰かに点訳などを頼むにも、不器用で、遠慮が先に立ってしまう。ある教授からは、「目の見えない人に、この授業の単位をあげるわけにはいかない」とまで言われたそうだ。方言地図が読み取れないというだけの理由だった。ちょっとした配慮でどうにでもなるのに、当時はその程度の認識だったのだ。

真喜屋さんは、大学のクラスメートと馴染むこともできず、授業についていくのが難しくなっていった。経済的な問題に加え、夢と現実の落差に耐えられなくなった彼は、だんだん精神を病むようになり、周りから孤立していった。そして、最後の頃は、精神科への入退院を繰り返すようになる。治は、彼のアパートや病院に行く度に、彼から「もう駄目かもしれない」と言われたそうだ。

真喜屋さんを救うことができなかった無念を、治は生涯にわたって心の奥深くに持ち続けていた。

真喜屋さんの自殺のショックから何とか立ち直った治は、益々点字あゆみの会の仕事に没頭していった。その頃は、まさか50年も続く会になろうとは思っていなかったはずだ。2016年の秋、歴代の会長や会員が集まり、創立50周年記念の祝賀会が行われた。点字あゆみの会は、健常者と視覚障害者が協力して点訳を行う団体で、健常者が主に活動している他の点訳団体とは活動の仕方が少し違っている。創立当時とは違い、30年ほど前からはパソコン点訳に変わっている。

点字あゆみの会に入った人たちの中には、その後、視覚障害者関連の仕事に就いた人が多い。治もその一人だった。何とか盲学校に就職したいとの願いを持っていたが、そううまくはいかず、しばらくは普通高校に勤めていた。その後、私の母校の恩師から「国語の教師の空きができた」との知らせをいただき、そこで30年間働くことができた。

その間、日本点字委員会の事務局担当委員や学識経験委員を務め、点字の普及や点字教育の発展に関わった。

また、現東大教授・福島智さんが高等部3年だったときにクラス担任を受け持ったことがきっかけで、全国盲ろう者協会の設立準備委員の1人として尽力し、1991年に設立することができた。盲学校定年後の2004年からは、全国盲ろう者協会の事務局長として8年間、盲ろう者の福祉向上のために働いた。そして、これらの仕事に対し、点字毎日文化賞をいただくことができた。

 

半世紀前の、真喜屋さんとの出会いがきっかけとなり、治は一生の仕事を見つけることになった。

治は、2012年4月に不治の病を宣告され、闘病生活に入った。2014年6月23日未明、「いい仕事ができてよかったね」という私の呼びかけに対し、「満足してるよ」と、はっきりした声で応え、その数分後に息を引き取った。奇しくも、沖縄慰霊の日だった。

平均寿命までには10年以上も早い旅立ちではあったが、おかげで幸せな人生を送ることができたと思っている。

 

治は、真喜屋さんから託された歌集の点字の原稿を、半世紀近く手元に置いたままにしていた。何とか出版したいとは思っていたのだが、全く整理もできておらず、また、どういう漢字を当てはめていいのかも分からず、「どうしたものかなあ」と、ずっと悩んでいた。その重い腰を上げるきっかけが癌宣告だったことは悲しいことだが、2013年の2月、真喜屋仁著、塩谷治監修『春想』として、なんとか出版に漕ぎつけたときには、心底ほっとした様子だった。真喜屋仁は真喜屋さんのペンネームである。

『春想』には、沖縄戦にまつわる憤りや悲しみ、そして、日常生活での喜怒哀楽などが、短歌や詩で綴られている。沖縄在住の歌人・俵万智さんからも感想をいただき、沖縄戦が残した爪痕を軸に、真喜屋さんがたどった生涯を描いたドキュメンタリーが、治の亡くなった1年後に琉球放送とTBSでテレビ放映され、反響を呼んだ。

 

私も治と一緒に、これまで何度か沖縄を訪れたことがある。真喜屋さんのお母さんにもお会いし、お宅に泊めていただいたこともある。

『春想』が出版されてから2ヶ月後の2013年4月、主治医の許可をもらって、二人で沖縄に行った。真喜屋さんの親戚や、盲学校の先輩・後輩など、彼にゆかりのあった人たちに会い、『春想』を手渡し、これまでお世話になったことへのお礼を言うためだった。そして、これが最後の沖縄訪問になるであろうことを、私たちは感じていた。雑草に埋もれた真喜屋さんの墓前で合掌したとき、これで一つの物語が終わったのだと想った。沖縄の4月はもう夏、そこここでデイゴの花が咲き始めていた。

 

 

あちらの世界で再会した二人の、こんな会話が聞こえてくるような気がする。

「ちゃんと原稿を整理しておいてくれなきゃ困るじゃないですか。本当に悩まされたんだから」

「いやいや悪かった、ごめん。あのときは、それどころじゃなかったんだ。生きるべきかどうかで頭がいっぱいだったからね。でも、さっさと出版してくれていたら、僕のことなんか、すぐに忘れていたと思う。だから、結果的にはあれでよかったんだ。一生、僕のことを引きずってくれたおかげで、一貫した仕事を遣り通すことができたのかもしれないよ」