作曲家・古関裕而をモデルにしたNHKの連続テレビ小説「エール」が、この春から放映されている。その中で流れている音楽を聞いているうちに、父母にまつわる遠い記憶がよみがえってきた。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションがラジオから流れてくるたびに、8歳の私は、意味はよく分からないながらも必ずと言っていいほど涙ぐんだものだ。それは、昭和27年に始まったNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」の冒頭のナレーションだった。今から思えば、幼い私を涙ぐませたのは、ナレーションというより、その後ろで流れていた古関裕而による音楽だったと思う。ドラマの中では、古関自身がハモンドオルガンでBGMを弾いていた。スタジオに楽器を持ち込んでの生演奏だった。その美しく切ない音楽は私を魅了し、母と一緒に毎週ドラマに聞き入った。そんなとき、母が1ヶ月ほど入院することになった。ラジオが聞けなくなった母は、私に、その間のストーリーを報告するようにと言った。目の見えない私は、ドラマが始まる前から大きな真空管ラジオの前に座り、点字で必死にメモを取った。そして、病院に行くたびに、それを読んで聞かせた。「真知子と春樹が会うことになっていたのに、怖いおばさんが邪魔しました・・・」などと、ほとんど意味も分からずに読んだ。周りにいたおばさんたちも、「こんなに小さいのによくお話が分かるね」などと言いながら熱心に聞き入っていた。

私が1歳半のとき、一家は東京大空襲で全てを失い、両親の故郷である鳥取県の海辺の片田舎に移り住んだ。しかし、小学校しか出ていない父には、家族5人を養っていけるだけの給料で雇ってくれるところは少なく、また、地元の農家や漁師の仲間に入れてもらうのも難しかった。そこで、私が7歳のとき、私たちは昔の伝を頼って再び東京へ行くことになった。

父は明治40年生まれで、古関より2歳年上だった。古関の歌を愛し、よく口ずさんでいた。その頃、父がいつも歌っていたのが、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲「夢淡き東京」だった。

「柳青める日 燕が銀座に飛ぶ日

 誰を待つ心 可愛いガラス窓

 かすむは春の青空か あの屋根は

 かがやく聖路加か はるかに朝の虹も出た

 誰を待つ心 淡き夢の町東京」

また東京で暮らせるという喜び、しばらく見ていない東京への思慕と憧れ、戦後まもない東京ではたして暮らしていけるのかという不安、そして目の見えない私のこと、それらの思いが若い父の胸に去来していたのではないかと思う。実際、この歌は、哀感を伴った短調のメロディーで始まり、「かすむは春の青空か」で輝くような長調に転調した後、「誰を待つ心」で再び短調になる。まさに、揺れ動く思いを見事に表している。

私たちが東京に着いたのは、銀座の柳が芽吹き、燕の飛ぶ春だった。父が待ち焦がれていた東京での生活が始まった。父は運よく仕事に就くことができた。バラックに住み、井戸で水を汲む生活ではあったが、父の給料と母の内職で何とか暮らしていくことができた。

父は、相変わらず古関の歌をよく口ずさんでいた。それを聞いているうちに、私も古関の歌に愛着を感じるようになった。神秘に満ちた「サロマ湖の歌」、重厚な響きの「白鳥の歌」、温かく美しい「長崎の鐘」などなど。今でも古関の歌を聞くと、在りし日の父の声が重なってくる。

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載