最近、面白い記事が新聞に連載された。そこには、1人の記者が、1週間アイマスクをしたままで生活した体験が書かれていた。「見えない世界をみてみたい」との思いにかられて、このような体験をすることにしたそうだ。全盲である私としては、なかなかユニークな試みだと思い、楽しく拝読した。

 その記者氏は、アイマスクをしたまま、白杖をついて街を歩いたり電車に乗ったり食事をしたり登山をしたりしたとのことだった。もちろん介助者と一緒にである。

 「1週間で何が分かるか」との指摘があるのではと、記者氏は心配されていたようだが、そんなことを気にする必要はないと思う。なぜなら、この体験記は、失明疑似体験ではなく、目の見える人が、アイマスクをつけた瞬間から、それを外すまでの間、それまでほとんど気がついていなかった音やにおいや手触りをどのようにして感じ始めていったかを綴った、貴重で興味深い体験記としての価値があるからだ。

 言うまでもなく、この記者氏の1週間の精神状態と、失明したばかりの人のそれとでは、決定的な違いがある。前者には、未知の世界への好奇心があり、しかも数日後には元の世界に戻れるという保証がある。だが、後者にはそれがない。その意味でも、これは、失明擬似体験とは違うのだ。

 連載の冒頭に、アイマスクをつけた瞬間「失明の真っ暗な世界」に入ったと書かれている。そして、その「闇」は、1週間ずっと続いたようだ。最後の日に山に登ったときも、空にかざした手のひらに降り注ぐ太陽のぬくもり、足元でサクサクとささやく霜柱の音、枯葉のカサコソという乾いた音色、谷を渡る風が届けてくれる梅の香り、それらを、真っ暗な空間の中で体験したという。

 私は、この連載を読んで、「完全に失明している人の日常は闇であると言えるのか」について述べてみたくなった。

 

 全く目の見えない状態を「暗黒の世界」とか、「漆黒の闇」などと表現することがある。目の見える人だけでなく、失明者自身もこの表現をしばしば用いる。確かに、物理的には光が届いていないのだから、その状態を表すのには、便利で分かりやすい言葉だからだろう。だが、果たして、そのように言っていいのだろうか。

 私は、この言葉になんとなく抵抗を感じている。それには、「暗黒時代」、「闇に葬る」などの言葉が持つイメージも原因しているが、それよりも、この言葉が失明者の日常を正しく表現していないと思うからだ。実際、それぞれ表現方法は違っていても、「自分たちの日常は、目の見える人が想像しているような闇ではない」というのが、失明者の一般的な実感なのだ。おそらく目の見える人のほとんどが、闇であると想像していることだろう。そう思うのは無理からぬことかもしれない。なぜなら、突然真っ暗な空間に置かれたとき、突然アイマスクをしたとき、突然失明したとき、確かに目の前にあるのは闇なのだから。けれど、その闇は永久に続くものではない。しばらくその状態に置かれているうちに、そこは「闇」ではなくなっていくのだ。物理的な意味では闇かもしれないけれど、感覚的には闇ではなくなっていくのだ。

 光を見ているときに突然その光を遮断されれば、光と対極にある闇が見えることになる。だが、長い間光を見ていなければ、その対極にある闇もなくなっていき、やがて「明るくも暗くもない状態」に入っていくのだ。「明」があるからこそ「暗」があるのであって、常に「明」がない者にとっては「暗」もないのだ。つまり、失明者の日常は、明るくも暗くもない状態と言ってもいいだろう。その意味では、「失明」という言葉は、正しくは「失明暗」というべきかもしれない。

 また、突然でなく、徐々に見えなくなった人の場合は、「闇」というプロセスをあまり意識することなく、いつの間にか、明るくも暗くもない状態に入っていくのだ。私も、幼いころに少しずつ見えなくなり、8歳くらいで完全に失明して以来、そんな状態が何十年も続いている。

 「暗黒の世界」、「漆黒の闇」という表現に私が危惧を抱くことがもう一つある。それは、いずれ完全失明することを医師から宣告されている人たちのことだ。物を見ることができなくなるという事態に加えて、彼らの多くが、永久に続くことになるであろう「闇」への恐怖におびえているのだ。私は彼らに言いたい。「そんなに怖がらなくても大丈夫。いずれ闇は薄らいでいくのだから」と。

 

 「明るくも暗くもない状態」についての表現は、人によって様々だ。グレーの霧の中にいるようだと言う人、その時々に想像した映像が白っぽいスクリーンに映っている状態と言う人、体調や精神状態によっていろいろで1日中闇のベールがとれない日もあると言う人など。

 また、いつ視力を失ったかによっても、その表現は違ってくる。見た記憶が全くない人の場合は、視覚以外の感覚を組み合わせることによって、視覚的な言葉では表現できない風景を作り上げているのだ。

 大人になってから失明した人のスクリーンに映る風景に比べれば、私のそれは曖昧で、夢の中に現れる蜃気楼程度のものだろう。それでも、暖かい日差しを受けて晴れやかなヒヨドリの声を聴けば、私のスクリーンには例え朧げであろうと青空が映る。風が冷たくて小鳥の声も少なければ白っぽい空が、雨が降っていれば灰色の空が映る。ときには、 雨や日差しに気づかずにいて、実際とは違った空が映っていることもあるが、所詮は蜃気楼のようなものだから、いつの間にか修正されていることが多い。

 もしも、失明者の日常が漆黒の闇に覆われていたとしたら、黒いキャンバスに絵を描くのが難しいのと同じように、闇のスクリーンに風景を映し出すのは困難なことだろう。そして、その闇から常に逃れられない状態にあるとしたら、きっと圧迫感に耐え切れなくなることだろう。そうならないのは、生きていくための自然の摂理によるのかもしれない。

 

 「想像ではなく本物の、光と色に溢れる世界をもう一度見たい」とは、失明者の偽らざる気持だが、それと同時に、「本物の闇が恋しい」と思うこともあるのだ。もし、常に闇の中にいるとしたら、そんなふうには思わないはずだ。失明者が闇を恋しがると言うと奇異に思われるかもしれないが、明るくも暗くもない状態にある「失明暗者」にとっては、本物の光と同時に、ふと本物の闇が恋しくなることもあるのだ。もはや体験することのできない、突然目隠しをしたときの闇、真夜中の森を覆い尽くす闇、夜の路地裏のあちこちに潜む闇、カーテンを閉めて明かりを消した寝室に漂う闇が・・・。