あれは、10年ほど前のことだった。有名な評論家の声がラジオから流れていた。「いよいよ秋ですねえ。夕べ、駅からの帰り道、たくさんの鈴虫が街路樹の上で鳴いていました」。私は耳を疑った。8月も下旬になると、誰も彼も同じようなことを言う。「鈴虫のきれいな声が」と。しかし、見識のあるこの人までがそんなふうに言うとは!

鈴虫は、特定の河川敷や深い林の草むらで鳴いていることはあるが、愛好家が飼育しているもの以外、今や都会に鈴虫などいない。絶滅危惧種に指定している県もあるとのこと。しかも、鈴虫は木の上では鳴かない。草むらでひっそりと鳴く。

今、夏から秋にかけての夕方から夜、都会の街路樹を席巻しているのは、何十年も前に中国南部から侵入してきたコオロギ科の昆虫、青松虫の大群なのだ。それが、いつの間にか鈴虫と呼ばれるようになってしまったのだ。「リーリーリーリー」と鳴くその声は異様に大きく、車の音や店の呼び込みの音楽をも凌駕し、駅で電車のドアが開くたびにシャワーのように車内に入ってくる。

同じコオロギ科の鈴虫と青松虫は、声の高さや音色という点では似ている。だが、雰囲気は、まるで違う。鈴虫の声はあくまでも細くはかなく、クレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返しながら、余情を残して消えていく。一方、青松虫の声は一本調子で押し付けがましく、しかも突然鳴きやむので、後には余韻も何も残らない。それなのに、木の上を仰ぎながら「鈴虫、いい声だねえ」と言って通り過ぎていく人の何と多いことか。

かつて、鈴虫の声は「ものの哀れ」を象徴するものとして長い間愛されてきた。私が子供の頃は、東京でも郊外に行けば、その声に出会うことも珍しくなかった。だが、自然環境の変化により鈴虫はほとんどいなくなった。そして、あろうことか、青松虫が「鈴虫」という伝統ある名前を分捕ってしまったのだ。さらに、青松虫の大きな声は、カネタタキやエンマコオロギなどの美声をもかき消してしまうのだ。

鈴虫の声濡れてゆく夜のしじま(彦坂範子)

「鈴虫、いい声だねえ」と言って木の上を仰ぐ人は、この俳句をいったいどう解釈するのだろうか。

「あれは鈴虫じゃなくて青松虫なの」と、いちいち注意するのも面倒だし、うるさがられても困るので、最近では何も言わないようにしている。青松虫の声を美しいと思うのも、人それぞれの感じ方なのだから。でも、やっぱり青松虫を鈴虫とは呼んでほしくない。

そう思っていたところ、この9月、某テレビ局が、鈴虫と青松虫の声の違いを解説する5分ほどの番組を放送した。これで少しは理解が広まるだろうと期待した。ところが、「鈴虫は鳴く虫の王様」というテロップが流れた結果、多くの人が、声の大きい青松虫のほうを鈴虫だと思ってしまったようなのだ。大きくて貫禄のある声の持ち主のほうを「王様」と思うのも、無理からぬことかもしれない。こういうことを短時間で理解してもらうのは、本当に難しいものだと思った。

平安時代には、今と逆で、「リーンリーン」と鳴くほうを松虫、「チンチロリン」と鳴くほうを鈴虫と呼んでいたという。だから、木の上で「リーリー」と鳴く青松虫も、いつかは「鈴虫」という名で辞書に載ることだってありえる。かくして、異国からの侵略者たちの陰で、本来の鈴虫は忘れられていくことだろう。

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載
日本エッセイスト・クラブ会報(2021年冬号)に掲載