あれは、36年前の、底冷えのする夕方のことだった。そのとき、私たち家族が「保育園のおじさん」と呼んでいたその人が、初めて我が家に上がってきたのだった。 4年近くも、うちの2人の子供たちをかわいがってくれていたのだが、その間、いくら誘っても家に入ろうとしなかった。そのときも「いえいえ、私のようなものがお邪魔しては・・・」と言って、玄関前で帰ろうとした。丁度そのとき夫が帰ってきて、「寒いですから、どうぞ上がってください」と何度も誘ったこともあり、その人は遠慮しながら家に上がってきた。

そして、4年間も打ち明けたことのない事実をその人から聞かされたのだった。その人は、戦前・戦後を通じて活躍し、日本人なら誰でも知っている天才作曲家の従兄弟だというのだ。「私は、飲んだくれで、変わり者で、金銭的にも迷惑をかけたので、あの一族の中にいられなくなって縁を切ったんです。それから、ずっとこんな生活をしているんです」と言った。

そして、その夜以降、私たちはその人に会うことはなかった。それから間もなく、私たちは、思い出いっぱいの目黒区駒場のその家から引っ越すことになったからだ。その人にひと言お別れを言いたいと思い、彼が暮らしていた施設の職員に聞いたが、彼の所在はすぐには分からず、そのまま引っ越すことになってしまった。4年間も優しく声をかけてくれた人にお礼一つ言わずに別れてしまったことを、今でも後悔している。

 

その人は、うちの娘と息子が通っていた保育園の近くの施設で暮らしていた。施設には、ホームレスをしていた人や、知的障害のある人たちがいた。そこから日雇いの仕事に出かける人もいれば、リハビリを受けながら生活する人もいた。

全盲の私には分からなかったが、その人はホームレス風の身なりをしていたらしく、道ゆく人たちからは何となく敬遠されていた。

その人は、私が子供たちを連れて道を歩いているときに話しかけてきた。保育園の送り迎えの途中だったり、マーケットからの帰りだったり、公園に遊びにいくときだったりした。どこからともなく、ひょっこり現れては、私や子供たちに優しく声をかけてきた。子供たちにお菓子をくれることもあった。

話の内容は、どうということもないものだったが、それでも、かなりの教養人であることが端端に感じられた。絵を描くのが趣味のようだった。

その人は、施設の職員から「古関さん」と呼ばれていた。私は、「古関なんて、古関裕而くらいしか知らないけど、珍しいなあ」くらいに思っていた。古関裕而の従兄弟だと知っていたら、もっといろんなことを聞きたかったのにと、今でも残念に思っている。

この話をすると、「古関裕而の従兄弟って本当なのかな?」と疑う人もいたが、私は本当だと思っている。なぜなら、有名人の名前を語ることで自慢したいのであれば、4年間も言わずにいるわけがないからだ。

 

私の父は、古関裕而より2歳年上で、古関の歌をよく口ずさんでいた。子供の頃からそれを聞いていた私は、その気品と哀感に満ちた歌が好きになっていった。

あれは、私が小学校2年生くらいのときだった。NHKラジオで「君の名は」という連続ドラマが始まった。その時間になると、女風呂がガラガラになると言われたほどの人気番組だった。しばらくして、母が1ヶ月ほど入院することになった。ドラマを欠かさず聴いていた母は、入院中に聴けなくなるのが残念だと言って、その間のあらすじを報告するようにと私に命じた。携帯ラジオなるものが売られ始めてはいたが、そんな高いものを買うわけにもいかず、私はそれに従うしかなかった。毎週、「君の名は」が始まると、何をさておいてもラジオの前に座り、点字でメモを取った。病院に行くたびに、そのメモの内容を母に報告した。「真知子と春樹が一緒に歩いていたとき、怖いおばさんが現れてね・・・」。「真知子は春樹に会いたかったのに、そこに行ったら春樹はいなかったの」。分かったような分からないようなストーリーだったが、それを聞いていた同室のおばさんたちから、「まあ、こんな小さいのによくお話がわかるね」と褒められたものだ。おばさんたちも、私の報告を心待ちにしていたようだ。

ストーリーはともかく、私が引き込まれたのは、古関がBGMとして弾くハモンド・オルガンだった。今と違って生放送だったから、古関は、台詞に合わせてアドリブで弾いていたのかもしれない。それが、子供心にも美しく切なく響いてきたのだった。

私が16歳くらいのとき、我が家に初めてテープレコーダーがやってきた。まず、家族が一人ずつ歌を録音することになった。父の歌は、予想通り「イヨマンテの夜」だった。近所中に聞こえるような声で、陶酔しながら最後まで歌い上げた。母は、もちろん「君の名は」だった。古関の歌が続いたので、私も「長崎の鐘」を歌った。

その後も、古関の歌を、父と2人でよく口ずさんだものだ。神秘に満ちた「サロマ湖の歌」、重厚な響きの「白鳥の歌」、切なさがひしひしと伝わってくる「君いとしき人よ」、爽やかで優雅なメロディーの「あこがれの郵便馬車」や「高原列車は行く」などなど。今でも、古関の歌を聞くと、在りし日の父の声が重なってくる。

36年前の、あの寒い夜以来、「保育園のおじさん、どうしてるかな?」、「こっちの連絡先くらい教えておけばよかったね」などと、時々、夫や子供たちと話していた。単に「優しいおじさん」というだけだったら、とっくの昔に忘れていたかもしれない。だが、私や父の好きな古関裕而の従兄弟であり、例え短い間でも裕而と親しくしていたであろうと思うからこそ、何十年経った今でも、父の歌声とともに、私の記憶から消えないでいるのだと思う。

やがて子供たちも家を出てゆき、夫も4年前に亡くなった。古関さんのことを話す相手がいなくなると、古関さんを思い出す瞬間もめっきり減った。

 

先日、ある人に誘われて、ラジオ歌謡やなつメロを歌う会に出席してみたところ、古関裕而の作品をはじめ、懐かしい歌が次々と歌われるのを聞くことができた。私も「長崎の鐘」を歌わせてもらった。そうしているうちに、久しぶりに古関さんのことが懐かしく思い出されてきた。36年前の、あの寒い夜、私のピアノに合わせて古関さんも「長崎の鐘」を歌った。積もり積もった思いが一気に溢れてきたらしく、彼は途中で何度も声を詰まらせた。どんな事情があって、あのような生活をすることになったのか知る由もないが、もしご存命なら、せめて穏やかな日々を送られていることを願いたい。

 

 

2018年9月 記す