あれは、東日本大震災から4カ月ほど経った頃のことだった。盲学校高等部の時の同級生による「雑木林」という名前のメールマガジンの発行が始まった。「雑木林」という名前の由来は、背の高い人や低い人、太い人や細い人がいる、というほどのことだったと思う。

 当時、みんな60代後半になっていた。東北から九州まで散らばり、卒業してから50年近く疎遠だった同級生たちが、「雑木林」によって繋がるようになったのは、東日本大震災がきっかけだった。福島のHさんの安否をみんなで調べているうちに、同級生仲間によるメールマガジンのようなものを作ったらどうかという声が上がった。横浜のSさんからの提案だった。Hさんが元気でいることは、すぐにわかった。それからまもなく「雑木林」が生まれたのだった。編集長を引き受けてくれたのは、その昔、クラスのボス的な立場にいたIさんだった。編集長のところに2通以上のメールが届いた時点で、それがクラス全員に配信された。メーリングリストの形にすれば、自然消滅する可能性があったからだ。パソコンや携帯でのメールができない人もいたが、これを機に勉強して仲間になった。

 「雑木林」では、身の周りの出来事から政治や宗教の問題、プロ野球の話題などが飛び交った。意見の違いから不穏な風が吹き始め、「雑木林」の木々が大きく揺れたこともあった。あのときは、「雑木林」も、いよいよ終わりかと思ったものだ。学校時代の失敗談や笑い話にも花が咲いた。先生や上級生たちについての批判。自分の初恋の人が、実はAさんの今の奥さんであることを告白する人もいた。嫁・姑問題。夫婦や親子間の問題。それらをみんなで批判したり助言したり慰めあったりした。

 東京に集まってのクラス会も何度かあった。そんなとき、弱視だった人が全盲になり、不自由そうにしている様子を目の当たりにすることもあった。

 やがて、「雑木林」にも、悲しい知らせが届くようになった。癌(がん)で入院中の人からのメール。退院したけれど、再発したので再入院することになったという人からのメール。そして、ついに訃報も届くようになった。福島のHさんも、横浜のSさんも亡くなった。長年、認知症の奥さんの介護をしていたFさんも亡くなった。そんな奥さんを残して旅立つことになったFさんの気持ちはいかばかりだったことか! 連れ合いを亡くした人もいた。私の夫も、「雑木林」ができて3年目に亡くなった。

 こんなこともあった。埼玉のSさんからのメールがぱったり途絶えた。メールにも電話にも応答がなかった。すると、ある日、「雑木林」にこんなメールが届いた。「私はSの娘です。母は少し前に亡くなりました。今日、母のパソコンを見ました。皆さんが、母に優しくしてくださっていたことを知りました。心から感謝いたします」。これを読んだ「雑木林」の仲間たちはみんな泣いた。

 「雑木林」が生まれてから今年で13年になる。2月の初めに第918号が届いた。今、みんな80歳前後の老木になった。メールの数もめっきり減った。人数も3分の2ほどになったが、これからも社会人として、家庭人として、また障害者として生きてきたそれぞれの日々を思い出しながら、「雑木林」が続いていくことを願っている。そして今は、「老木たちに幸いあれ!」と祈るばかりだ。

 

毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版および点字版)に掲載