8月も下旬になり、エンマコオロギの声が昼間でも高らかに聴かれるようになった。私は、夜明けのベランダで一人、コーヒー片手に秋の気配を感じながら、おそらく終の住処になるであろうこの家への感謝と、ここで繰り広げられてきた出来事に思いを馳せる。

私は、マンションの3階で一人暮らしをしている。このマンションには50世帯ほどの人たちが暮らしているが、ここに来て16年になる今も、その人たちの名前を私は一人も知らない。エントランスやエレベーターで「こんにちは」などと声をかけられ、私もそれに応える。それだけである。それ以上のつながりを求めたいとは思わない。若い頃ならそれを寂しいと感じたかもしれないが、今の私にはこれで十分なのである。

ここに引っ越してくる前に住んでいた集合住宅では、ほとんどの住人の名前と声を覚えていた。子供たちが学校や習い事に通っていれば、子供を介して親同士のつながりは密になる。良くも悪くも、みんなは全盲の私を対等に扱ってくれた。お互いに子供を預けたり預かったり、手作り料理をやり取りしたり、一緒にPTAの仕事をしたり、悩み事を打ち明けあったりした。典型的な教育ママもいたし、噂好きの人もいた。大らかで太っ腹な人もいれば、けちで有名な人もいた。「私、やっぱり離婚することにしたの。あんな父親と一緒じゃ子供たちがかわいそうだから。これまで親しくしてくれて、ありがとう」と言って、子供をつれて遠くへ行ってしまった人のことは、今思い出しても涙ぐんでしまう。あの悲喜こもごもの日々のことは、今も懐かしくよみがえる。それぞれの子供たちが就職や結婚で家を出ていってからも、親同士の付き合いは続いた。

しかし、ここに引っ越してきてからは、「隣は何をする人ぞ」という暮らしもまんざらではないと思っている。5年前に夫が旅立って一人になってからも、その気持ちは変わっていない。「何かあったときのために、マンションに一人くらい知り合いを作っておいたほうがいい」と人に忠告され、平日の昼間に勤務している管理人の電話番号だけは聞いてある。しかし、何かあったときのためという理由だけで住人と親しくしたいとは思わない。親しくすれば、いいこともあるかもしれないけれど煩わしいことだってあるに決まっている。今は、ご近所さんのことなど何も気にせずに過ごしたいと思っている。そして、この愛すべき住処で最後まで何事もなく静かに暮らしていけたらと思っている。

この3階という高さは、ベランダからの聴覚的な眺めに適しているように思う。草むらで鳴く虫の声や雨が地面を打つ音も聴こえるし、空中や木の枝で鳴き交わす鳥のさえずりも立体的に捕えられるからだ。近くに自動車通りもないから、夜更けともなれば針の落ちる音も聴こえそうな静けさがやってくる。私は時々、その静けさの中でベランダの植物たちの枯れた花や葉っぱを摘み取る。枯れたところに指が触れるとカサッという乾いた音がするので、それと分かる。この微かな音をキャッチするには、この静けさはありがたい。雨上がりで花や葉っぱがぬれていると、この音はしない。湿度の低い夜がいい。雑念を捨てて単純作業に没頭する。前は公園、ベランダにはお隣さんとの間に目隠しの壁があるから、昼も夜も誰にも見られることなく、爽やかな孤独感に浸ることができる。

孤独が好きだなどと言っても、出かけるたびに人と会っているわけだし、家にいても電話やメールで人と繋がっているのだから、孤独などとは程遠い生活だ。本当の隠遁生活など、私にできるわけがないのである。

 

(点字毎日活字版2019年10月17日号、点字毎日点字版2019年10月13日号、掲載)