11月も中旬となり、あれほど賑やかだった虫の声もすっかり聞こえなくなった。だが、暖かい小春日和には、コスモスもキクも枯れた植え込みなどから、チッチッチッというカネタタキの高い声が聞こえてくることがある。「おや、お前まだ生きていたんだね」と、思わず愛しくなってしまう。もはやその声には、これまでのような輝きやあどけなさや悲しみの色や焦燥感はない。チッチッチッと、ただただ力なくつぶやくだけだ。

カネタタキは、夏には主に夜間に鳴くが、秋に入ると昼夜を問わず鳴き、晩秋には昼間だけ鳴く。郊外はもちろん、大都会でも鳴く。低い草むらではなく、街路樹や背の高い草の上で鳴くから、夏の夜には、いろいろな高さからカネタタキの声が降ってくる。細い棒でグラスをたたくようなその声は、いじらしくもあり、可憐でもあり、はかなげでもある。他の鳴く虫に比べれば、声は小さく、メロディーもリズムも実に単調で地味だが、鳴いている時間や場所や時期、そして、その時々のこちらの感情によって、不思議と聞こえ方が違ってくる。

何百何千ものカネタタキが群れていると、その壮絶さに圧倒され、一種の恐れさえ感じる。以前、両親の墓に行ったときも、夕暮れの霊園は無数のカネタタキの声で満たされていた。星になった魂たちが、点滅しながら空から降りてきて、口々に誰かを呼んでいるように聞こえたものだ。

晴れた秋の午後、友人たちと銀座の歩道を散歩していたとき、あちこちからカネタタキの声が聞こえてきた。私には、それらが小さな宝石の粒のように感じられた。その宝石たちは、店の植え込みや街路樹の上で輝いていた。やがて、わずかな雨が落ちてくると、宝石たちが雨粒になったのかと思った。

2匹のカネタタキが同時に鳴き始めるとき、最初のうちはリズムが合っているが、少しずつずれてきて、再び合うようになり、またすぐにずれていく。この繰り返しが妙に気になったりする。これは個体によって鳴く速さがわずかに違うからだが、カネタタキの声の高さは個体によってほとんど変わらないように聞こえる。それは6000ヘルツから7000ヘルツくらいの間だという。この高さは、ピアノの最も高い「ソ」のさらにオクターブ上の「ソ」と、その1音上の「ラ」との間の範囲の音ということになる。このくらいの高音になると、1音の差を聞き分けるのは非常に難しいので、カネタタキの声の高さの違いを聞き分けるのも難しいというわけだ。カネタタキをはじめとして、鳴く虫と呼ばれるもののほとんどがコオロギ科なのだが、マツムシ、スズムシ、エンマコオロギ、ツヅレサセコオロギなどのコオロギ科の虫の多くがカネタタキより声が低いので、それぞれの個体による高さの違いが分かりやすい。これらの虫のアンサンブルの中で、カネタタキやマツムシはトライアングルやチェレスタ、スズムシやエンマコオロギやツヅレサセコオロギはヴァイオリンやヴィオラやチェロのトレモロのように聞こえる。

だが、残念なことに、最近ではマツムシやスズムシを都会で聞くことはほとんどなくなり、アンサンブルは寂しくなった。さらに追い討ちをかけたのがアオマツムシだ。中国南部から侵入して以来、ものすごい勢いで増え続けているアオマツムシの大音響が、繊細なアンサンブルを壊しつつある。夏から秋にかけての夜、都会の街路樹はしぶとい声でリーリーリーと鳴く大量のアオマツムシに占領される。「素晴らしい声だね」、「あれ何の虫?」、「スズムシじゃないの?」などという会話を聞く度にがっかりする。声の高さはスズムシに近いけれど、アオマツムシにはスズムシの繊細さは微塵もなく、声量を競うことだけに命を燃やしているように聞こえる。

(点字毎日活字版2019年12月12日号、点字毎日点字版2019年12月8日号、掲載)