小学部4年生の1学期も終わる頃だった。「B君は盲学校なんかにいたら駄目になりますよ。元の学校に戻ったほうがいいです」。担任のA先生とB君のお父さんが話しているのを、私たちは教室の掃除をしながら聞いていた。A先生が、私たちにも聞こえるように大きな声で話しているのがわかった。A先生は当時40代くらいの男の先生だった。B君は1学期の初めに転校してきた弱視の子だった。A先生とB君のお父さんが話しているのを聞いたとき、幼い私たちは、先生の期待に応えられない自分たちを申し訳ないと思うとともに、やっぱり私たちは駄目なんだと思った。

算数の時間では、掛算や割算の答えを最初に出すのは、たいていB君だった。私たちの暗算や算盤より、彼の筆算のほうが早かったからだ。そのたびにA先生は「やっぱり普通の学校にいた子は違うなあ」と言った。国語の教科書をたどたどしく読むB君に、「B君は墨字を読むのが大変だから仕方ない」と言ってB君を庇った。点字の教科書がすらすら読めても何の意味もないと言っているようだった。

2学期が始まると、B君は学校に来なくなった。A先生は、教室に入ってくるたびに、聞こえよがしに大きな溜息をつくようになった。「こんな子供たちに教えても仕方ない」と言っているように聞こえた。A先生は何かにつけて「やっぱり君たちは駄目だなあ」と言った。そのことを親に話したこともあったが、聞いて聞かぬふりをしていた。A先生が休んだときは、C先生という女の先生が代わりに授業をしてくれた。A先生は、その授業の内容を私たちに聞いてはけちをつけ、「やっぱり女は駄目だなあ」と言った。でも、授業が終わるとすぐに帰るA先生と違い、C先生が毎晩遅くまで理科室に残って教材を作っているのを私たちは知っていた。

A先生は4年生の教室の真下の部屋に奥さんと住んでいた。戦後まもない頃だったから、家を借りるのも大変だったのかもしれない。1階の廊下を歩いていると、料理をする匂いが漂ってきて、「A先生の今日の夕食はカレーだ」などと言い合ったものだ。ある日、私たちが教室の掃除をしていたとき、誰かがモップ用のバケツにつまずき、水がA先生の部屋に漏れた。その直後、A先生が物凄い剣幕で怒鳴り込んできた。その声には、怒りと同時に、やり場のない悔しさと悲しみが滲み出ているのを、私たちは感じた。そのときのA先生の心境を、大人になった私たちはこう分析したものだ。自分は盲学校なんかで教えるような人間ではない。もっといい仕事があるはずだ。でも、生活していくためには定年まで勤めるしかない。それに、住む場所まで盲学校から借りているなんて何と情けないことだ。そして、その部屋に水が漏れてきたくらいで、子供たちに向かってこんなに怒鳴っている自分も情けないではないか。

実際、A先生は定年まで勤め、30年ほど前に亡くなったと聞いている。きっと、満たされることのない人生だっただろう。今でも、小学部のクラスメートとA先生の話をすることがある。他の人が聞けば驚くようなエピソードも、私たちにとっては、もはや楽しい酒の肴なのである。そして、「今だったら大変だよね」という話で終わる。今だったら、保護者会が動き、あっというまにネット上で炎上し、週刊誌に載って終わりということになるだろう。このような先生は、程度の差こそあれ珍しくなかった。今となっては「古き良き時代」のお話なのである。

 

毎日新聞社発行「点字毎日」(点字版および活字版)への連載エッセイより