今年の夏は、例年に比べて蝉の数が少なかったように思う。6月の終わりに突然猛暑がやってきたので、まだ着替えの準備もできていないまま、慌てて地上に出てしまった蝉たちの中には、身支度もできないまま息絶えたものも多かったのかもしれない。

7月の初めには、「蝉の鳴かない夏」なんて、ミステリーのタイトルのようなフレーズが浮かんだこともあったが、やがて、数は少ないながらも、例年通りにコーラスのパートが出そろったので安心した。

 同じ昆虫でも羽をこすりあわせて鳴く昆虫と違って、蝉の発声器官は人間のそれに近いせいか、私はその声に親近感を持っている。音色もメロディーもリズムも、蝉ごとに全く違うのも面白い。

 まず登場してもらうのはツクツクボウシだ。この声を聞くと思い出す光景がある。昔、知人の葬式に参列したときのことだった。火葬場の近くで、若い母親が我が子の名を呼びながら泣きじゃくっていた。そこを通る人たちがもらい泣きをする中、突然ツクツクボウシが鳴き始めた。しゃくりあげて鳴くツクツクボウシの声は、その母親と一緒に悲しんでいるように聞こえた。それ以来、私にはツクツクボウシの声が泣きじゃくる女性の声に聞こえるようになってしまった。

 「カナカナカナカナ」というヒグラシの声は、濁っているにもかかわらず涼しさを感じさせるから不思議だ。夜明けにも日暮れにも鳴くが、夜明けの声は神々しく、日暮れの声はわびしく聞こえる。秋風が立ち始める夕暮れ、ヒグラシは人間のノスタルジアを誘うように、音程と速度をわずかに下げながら歌い終えるのだ。

 私の幼い頃、道を歩きながら浪曲を口ずさむおじさんがたくさんいた。ミンミンゼミの声は、その歌い出しを思い出させる。「ミーンミーン」という、ゆっくりしたウオーミングアップで始まり、やがて本格的な唸(うな)りに入るかと思えば、力尽きて終わってしまうのだ。気を取り直して再び「ミーンミーン」と始めるが、やはり前口上だけで終わってしまう。

 アブラゼミは息が長く、歌も実に単調だ。声が揚げ物をするときの音に似ているところからこの名が付いたらしいが、こんな勢いで油が跳ねたら、あっという間に森が火事になってしまいそうだ。

 最近になって驚いたことがある。松尾芭蕉の名句「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」だが、私はこの句に、全山を覆い尽くすほどの蝉時雨を想像していた。ところが、1匹だけの蝉を詠んだものという解釈もあるというのだ。私はそれには納得できない。 1匹の蝉なら静かなのは当たり前ではないか。そんな平凡な句であるはずがない。何千何万もの蝉時雨ともなれば、もはや蝉の種類など聞き分けられず、単調な騒音となってしまう。そして、しばらくそこに身を置いているうちに、何の音もしていないような錯覚に陥る。しみじみ「静かだなあ」と思えてくる。大音響の滝のそばにいるときも同じだ。

また、厚い雲に覆われた広大な雪原を行く人が、何も見えていないような錯覚に陥るというのと似ているかもしれない。

 いや、待てよ! 深い森で、アブラゼミか何かが1匹だけ鳴いているとしよう。そうすれば、そこに広がる巨大な静けさが際立つ。すべてをのみ込んでしまいそうな静けさが。

こちらの解釈もいいような気がしてきた。もしかしたら「どちらでもお好きなほうを」と言うのが作者の意図なのかもしれない。

 9月も終わろうとしている今、私は1匹だけ鳴いているツクツクボウシを聞いている。

 秋風や胸にしみ入る蝉の声(靖子)

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載