最近になって、少しずつ断捨離を始めようかと思うようになった。両親亡き後の実家の片付けの様子が、頻繁に思い出されるようになったからだ。

 17年前、兄弟と実家に集まっては、片づけに膨大な時間と労力を費やした。お宝や金目のものがあるかもしれないとの密かな願望を抱いていたことも確かだが、そんなものは出てこず、ごみ袋の山ができ、庭は粗大ごみ置き場と化した。捨てるに忍びないものが出てくるたびに、どうしたものかとため息をつきあった。退職後に父が趣味で描いていた数多くの絵や陶芸の作品。大事そうにしまってあった手紙や写真の束。額に入れた表彰状や感謝状。編み物教室で教えていた母のたくさんの作品。両親が大事に育てていた庭の木々。しかし、そのたびに迷っていたのでは片付けは永久に終わらない。もらい手のついたものも少しはあったが、それ以外は心を鬼にして期限までに片付けを終えた。更地になったその場所へ行ったとき、「一つの歴史が終わったのだ」との感慨にふけったものだ。

 しかし、あのときの後味の悪さは今でも忘れられない。だから、私亡き後、子供たちに同じような思いをさせないよう、今から少しずつ断捨離をしなければと思い始めたわけだ。特に私の場合、点字で書かれたものが多く、それが膨大なスペースを占領している。1冊の英和辞典や和英辞典でも、点字では数十冊になる。料理のレシピだって、「春の部」だけでも数冊になったりする。だが、このペーパーレスの時代にも関わらず、何となく愛着があって捨てられないでいた。何の録音なのかよくわからないテープの山。ラジオから録音した英会話の膨大なテープも、ほとんど使わないままで終わってしまった。夫の遺品に至っては、9年たった今でも、ほとんどそのままになっている。これはもう子供たちに任せるしかない。

 キッチンも二度と使わないであろうものであふれている。よくもこんなにためこんだものだと思う。もらい手が見つからずに箱に入れたままの引き出物の食器。大小さまざまの鍋やボール。誰かにあげるなり処分するなりしなければ、それでなくても狭いキッチンは使いにくくて仕方ない。

 先日、キッチンの物入れの奥のほうに、何とも懐かしいものを見つけてしまった。長い間、日の目を見ずに眠っていたお菓子作りの道具一式だ。粉ふるい、泡立て器、さまざまな形の型抜き……。それを見つけた瞬間、私の想(おも)いは半世紀近く前の、早春の荒川土手に飛んでいた。

 パウンドケーキに蓬(よもぎ)を入れてみようという私の突然のアイデアにより、幼い子供2人と近くの荒川土手に蓬摘みにいったのだ。誰にも踏まれていないきれいな蓬、成長していない柔らかい蓬。そんな蓬の選び方を教えながら、3人で蓬摘みをした。風は冷たいながらも、よく晴れた空高く無数の雲雀(ひばり)がさえずり、摘んだばかりの蓬の香りが立ち込めていた。「危ないから遠くへ行っちゃ駄目だよ」「わかった。近くにいるから大丈夫だよ」「呼んだらすぐ来るんだよ」「はーい」。今、私だけを頼りにしてくれているこの子たち! 私は、なににも代えがたい幸福感に包まれた。

 湯がいてみじん切りにした蓬をパウンドケーキの生地に混ぜこんでオーブンで焼き、それをスライスした。緑の香りが広がった。蓬のパウンドケーキは味も色も香りも上品な仕上がりで、家族にも近所のママ友にも評判が良かった。

 かくして、捨てるはずだったお菓子作りの道具一式は今、リビングの棚に飾ってある。あのときの想いを忘れないために。

お菓子作りの道具の写真

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載