この夏、真昼の炎天下で一人の老女が亡くなった。彼女が我が家の最寄駅の前で路上生活を始めたのは、六年ほど前だった。彼女の存在は、全盲の私にも感じ取ることができた。いつもの場所で、ポリ袋や新聞をいじる音がしていたからだ。
彼女は、猛暑の日であろうと北風の吹き荒ぶ日であろうと、ほとんど毎日同じ場所にいて、周りのゴミを拾ったり、敷物の上に座ってノートに何かを書き綴ったりしていた。そばを通る人たちの中には、熱いお茶や冷たいジュースを差し入れてあげたいと思った人もたくさんいるはずだが、周囲の同情を頑なに拒むような態度に、なんとなく近寄りがたくて、ほとんどの人が黙って通り過ぎていった。彼女は、早朝から一日中そこにいたが、どこへ行くのか夜にはいなくなっていた。
日によって、もっと涼しいところ、もっと暖かいところ、もっと雨風の当たらないところに移動することもできるのに、なぜいつも同じところにいるのか。なぜ、人々の善意を拒み続けるのか。そんな、普通の路上生活者とはどこか違う様子が気になって仕方なかったので、何度か声をかけてみたことがある。だが、予想通り、何の返事ももらえなかった。やがて、駅前を行き交う人たちにとって、そこに彼女のいる風景は見慣れたものになっていった。
そんなとき、地元のタクシー会社の人から、こんな驚くべき話を聞いた。彼女にはちゃんとした家があるのだが、息子がこの駅のホームから投身自殺をして以来、昼間は駅前で過ごすようになった。息子の自殺の原因が自分にあると思った彼女は、家人が引き止めるのも聞かず、罪を償うために駅前に通っているというのだ。
この話を聞いたとき、私はあることに思い当たった。それは、彼女が駅前に現れるようになる直前に起きた出来事だった。ある日、その駅で人身事故があった。私の夫は、このニュースを職場で聞いて驚いたという。ホームから落ちたのは私に違いないと思ったのだ。乗降客の少ない小さな駅だから、かつて人身事故が起きたという話は聞いたことがないし、それに、この駅を利用する視覚障害者は私以外にほとんどいないはずだからだ。いや、それよりも何よりも、私に違いないと確信した理由は、何十年も前のことではあるが、私が他の駅でホームから落ちて九死に一生を得たことがあるからだ。この出来事を思い出した夫は、今度こそは私が死んだに違いないと思ったという。すぐに私に電話したが出なかったので、急いで駅に向かうことにした。そして、そのあと間もなく私でないことが判明したのだった。帰宅の折、駅員に聞いたところ、それは中年の男性によるホームからの投身自殺だったという。
あの頃のいろいろなことから考え合わせてみると、彼女が駅前に現れたのは、それから間もなくだったことが分かる。あのとき投身自殺したのは彼女の息子だったに違いない。その直後から、彼女はいたたまれない気持ちで駅前に通い続けたのだ。命が尽きるまで苦行に耐えれば、息子に許してもらえると思ったのだろう。頭上を轟音が走り去る度に、息子に語りかけていたのではないだろうか。道ゆく人たちの同情を寄せ付けない態度も、苦行を全うするためだったのではないか。そうに違いないと納得したのだった。
あの苦行に何年も耐えられたのだから、高齢にしては強靭な肉体の持ち主だったに違いない。だが、さすがに三十七度の猛暑には勝てなかった。薄れてゆく意識の中で、「もう許してくれるよね」と言いながら息子のもとへと旅立ったのだろう。
彼女の亡骸が運ばれていった直後、駅前でその訃報を聞いた私は、「長い間ご苦労様。ようやくその時が来ましたね」と合掌した。
めくるめく日差し、そして、彼女が背負い続けた罪も悲しみも跡形なく焼き尽くさんばかりの熱気。人通りの途絶えた真昼に、蝉しぐれだけが読経のように降り注ぐ。苦行を達成する瞬間の光景として、これ以上ふさわしいものはない。
あれから数ヶ月、彼女がいた場所を今、コートの襟を立てた人々が足早に行き交う。何事もなかったかのように。
日本エッセイスト・クラブ会報(2013ねん冬号)に掲載