今、人生の黄昏(たそがれ)を迎えている私だが、実際の黄昏については幼いときから人一倍、特別な恐れやロマンを感じてきたような気がする。それは、子供のときのいくつかの体験によるものではないかと思っている。大人にとっては何でもないことであっても、子供には一生を通じて強い影響を与え続けるのかもしれない。その体験の中から二つほどを記してみたい。どちらも私が四、五歳のときのことだった。

 その頃、私は鳥取県の片田舎に住んでいた。その日、近所の子とその母親との三人で隣町へ出かけた。事件はその帰りに起きた。私は途中でその親子とはぐれてしまったのだ。

太陽はかなり傾いていた。来るときは太陽を背にしていたのだから、今度は太陽に向かって進めばいいと、子供なりに思った。その頃、わずかに視力はあったが、周囲の景色を頼りにできるほどではなかった。ほとんど誰も通らない道をひたすら歩いた。夕闇がジワジワ迫ってきた。このまま家に帰れなければ、ご飯も食べられないから死んでしまうに違いないと思った。これまで親戚の葬式には何度か行ったことがある。同い年の子の葬式もあった。自分にもいよいよそのときが来たのだと思った。もう親にも会えないのだと。力尽きて座り込んでいたところを誰かに助けられた。そのとき、異様に大きな月が出ていた。

 また、ある日、父と二人で汽船に乗って出かけたときのことだった。波は朝日に輝き、海鳥が穏やかに鳴き交わしていた。ふと気がつくと、一瞬の間に夕方になっていた。空も海も暗く、海鳥が不気味に叫んでいた。頭が混乱した。これまでに体験したことのない不吉な思いに襲われた。父が何か説明しようとしていた。やがて、再び朝日が顔を出し、何事もなかったように穏やかな海が戻ってきた。それが日食というものであることを知る由もなかった。これも強烈な体験として脳裏に焼きついている。

 これらの出来事以来、私にとって夕暮れから夜にかけての時間は、良くも悪くも気持ちがざわつくものになった。子供のときから二十歳すぎまで、ずっと木造の平屋に住んでいたが、夕暮れになると家全体から不規則で微(かす)かな音が聞こえ始める。昼間のうちに膨張した壁や屋根が縮む音だ。何とも不吉で、また魅惑的な音だった。

 私の好きな夕暮れから夜にかけての詩歌や音楽は、気持ちをざわつかせるような、どこかに魔物が潜んでいるような、それでいて、そこはかとない美しさを秘めたものに偏っている気がする。ときには作者の意図とまったく違う解釈をしていたこともある。

 例えば、蕪村(ぶそん)の句に「橋なくて日暮れんとする春の水」というのがある。私はこの句に対する蕪村の想いを最近まで誤解していたようだ。それは幼い日の、あの夕暮れの体験によるものだろうと思っている。私の解釈はこうだ。「春の夕暮れ、家に帰ろうとして川のほとりを歩いている。向こう側に渡りたいのだが、どこまで行っても橋がない。日はまさに沈もうとしている。江戸時代であれば、待っているのは漆黒の闇。追いはぎも出るかもしれない。けれど、夕日に輝く水はどこまでも美しい」。

 ところが、蕪村に関するいくつかの解説書を調べてみると、そんな解釈はどこにも見当たらなかった。「橋のないその水面は、まるで生き物の背中のように躍動し、その背中を夕焼けが撫(な)でていく」というダイナミックなものだった。

 だが、敬愛する蕪村は、私の解釈と同じ気持ちでこの句を作ったのではないかとの思いを、今でも捨てきれないでいる。

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載