月天心貧しき町を通りけり

与謝蕪村の、この名句を知らないという彼に、「どういう情景を描いた俳句だと思う?」と聞いてみた。

即座に答えが返ってきた。「素晴らしい句だね。空の中央にあった真夜中の月が、少しずつ西のほうへ移動していく。そうやっって、月は愛情と哀れみを持って、貧しい町の隅々を照らしながら通り過ぎていく」。

これを聞いて私は絶句した。そんな発想があろうとは!町を通っていったのは、蕪村でなく月だというのだ。もしかして蕪村自身も、そういうつもりで作ったのだとしたらどうしよう。そして、誰もが、そういう解釈をするのが普通だとしたら・・・。

いや、そんなことはありえない。町を通っていったのは、お月様ではなく、蕪村おじさんに決まっている。断じて、そうでなくてはいけない。

真夜中、低い屋根の貧しい家が立ち並ぶ月明かりの町を、人生への思慕と、やるせなさを抱えて、蕪村が一人歩いている。私は何十年もの間、そう思ってきた。

そして、これが、この俳句に対する通常の解釈であることもすぐに分かった。なぜなら、もし、そんな上から目線の愛情や哀れみだったら、この句に人生への愛惜など感じられないし、まして、名句などと賞賛されるはずもないからだ。「お月様が空から見守ってくださっている」という、陳腐なフレーズに成り下がってしまうだけだ。

蕪村のこの句では、月は単なる情景にしかすぎず、主人公は、あくまでも繊細で涙もろい蕪村自身なのだ。

仮にも、「ブソニスト」を自称する私としては、たとえ数分間とはいえ、ありえない解釈へと傾きそうになった自分に恥じ入るばかりである。

それにしても、あんな突拍子もない解釈が瞬時に浮かぶとは、我が愚息ながら褒めてやりたい。