「面白いものを買ったから、今から持っていくよ」。息子からそんな電話があったのは、今から3ヶ月ほど前だった。持ってきたのは、ネットワークカメラという掌に乗るほどのもので、それを部屋の棚の上などに置いておけば、スマホを操作することによって、どこからでも部屋の様子を見ることができ、病人やペットの見守りにも使えるという。だが、いくら全盲で一人暮らしの高齢者だからといって、病人やペットと一緒にされるのは嫌だ。親子とはいえ、私にだってプライバシーはある。「悪いけど持って帰って」と言いかけたところ、一緒に来た孫が「これで、いつでもおばあちゃんに会えるね」などと言ったので、それ以上は言えなくなってしまった。

二人が帰った後、「さて、どうしたものか」と考え込んでしまった。見守りと言えば聞こえはいいが、要するに話のできる防犯カメラだ。カメラは遠隔操作により、横方向に350度、縦方向に110度、回転させることができるから、両方を組み合わせれば、ほぼ全域を見渡すことができるという。

思えば、6年前に連れ合いを亡くして以来、外出時や来客のあるとき以外は、人に見られることを想定しないで暮らしてきた。1日中パジャマで過ごす。汚れた食器をテーブルに置いたまま、服は脱ぎ散らかしたままで外出する。掃除はめったにしない。洗濯物は室内につるす。まして、部屋に花を飾ることなどなくなった。だが、そんなところは見せたくない。以前のような、めりはりのある生活を取り戻すには、これがいいチャンスかもしれないと思った。それに、息子のせっかくの好意を無にしてはいけない。娘も、自分のスマホでネットワークカメラにアクセスできるように設定した。私も「いつも子供たちが見守ってくれているのだ」と思うことにした。2日に1度くらい、「大丈夫?」、「風邪治った?」などという声が、カメラから聞こえてくるようになった。私は、いつ見られてもいいようにと気を配り、掃除もまめにするようになった。子供たちが誕生日にプレゼントしてくれた部屋着を着、仏壇にはベランダから摘んできた花を飾った。カメラを回転させればキッチンまで見渡せるから、汚れた食器はすぐに洗った。生活には適度の緊張感が生まれ、不意の来客にもそれほど慌てずに済むようになった。

しかし、そんな状況は長くは続かなかった。「見守られている」という思いと同時に、「見張られている」という感覚も強くなっていった。そこで、カメラに帽子をかぶせ、カメラから声が聞こえたときだけ「ちょっと待って」と言いながら帽子を取ることにした。これで、全く無防備な状態で見られるという心配はなくなった。うっかり帽子をかぶせるのを忘れ、食事時に「おばあちゃん、何食べてるの?」などという孫の声が聞こえたりしたが、それもご愛嬌と思うことにした。私も、見せたいものがあるときや、複雑な書類を読んでもらうときなどに、このカメラを大いに利用した。スマホと違って、こちらでカメラの向きを変える必要がないので助かる。

だが、息子がこのカメラを店先で見つけたときの気持ちを思うと、申し訳ない気分になる。このカメラがあれば、常に母親の安否を確認できる。もし、様子がおかしかったり倒れていたりしたら、何はさておき駆けつけよう。そう思って迷うことなく買ったに違いない。それなのに、私はその気持ちに応えていない。もう、見栄など捨てて、ありのままを見せればいいのに、それができないでいる。往生際が悪いのだ。いずれは帽子を取る決断をすることになるだろう。その時が早く来ることを願っている。

 (点字毎日活字版2020年2月13日号、点字毎日点字版2020年2月9日号、掲載)