風薫る五月、命みなぎる五月、ばら咲き緑輝く五月、夢見る五月。今は確かに五月だ。私の好きな五月だ。だが、昼間だというのに、この静けさは・・・。生活音が聞こえてこない。得体の知れない微粒子が世界中を飛び交い、人々はひっそりと暮らしている。かつて経験したことのない巨大な静けさが広がっているのだ。

この静けさの中にしばらく立ち尽くしていて気がついたことがある。それは、こんな都会にもたくさんの野鳥がいたということだ。何年も昔にいなくなったと思っていたヒバリやコチドリの声が遠くに聞こえるではないか。さらに遠くから、メジロやホオジロやオオヨシキリの懐かしいさえずりも・・・。微かではあるが、確実に聞こえてくる。普段、なにげなく聞いているツバメやヒヨドリやムクドリやキジバトやシジュウカラの声にも微妙な表情が感じとれる。不気味だった静けさが、いつしか魅惑的なものに感じられてきた。一刻も早く終止符が打たれるべき静けさなのに・・・。

私は、このチャンスを利用して毎朝ベランダでバードリスニングをすることにした。花たちに水をやってから、コーヒー片手に至福の時を過ごす。ほんの一瞬ではあったが、はるか遠くから底抜けに朗らかなクロツグミの歌声が聞こえたときは驚いた。毎年、家族や友人たちとバードリスニングと称して野山に出かけていた頃の感動がよみがえり、熱いものが込み上げてきた。夜のうちに現地に着き、夜の鳥から昼の鳥へと変わっていく壮大な音のパノラマを無言のまま鑑賞したものだ。人を突然呼び止めてお説教をするフクロウのアルト、溜息混じりで悩ましげなアオバズクのメゾソプラノ、あの世から聞こえてくるようなトラツグミのソプラノ、絶え間なく時を刻むヨタカのパーカッション。夜露の滴る音も聞こえそうな静けさの中で、孤独を愛する夜の鳥たちがノクターンを奏でる。やがてそれは東から西へと追いやられ、クロツグミのファンファーレとともに華やかな朝のコーラスが繰り広げられるのだ。

先日しばらくぶりに外出した。道路もほとんど人通りがなく、新緑の街路樹が風に揺れる音や鳥たちのさえずりが、これまでにないほどクリアに聞こえる。爽やかな孤独感に浸りながら駅へと向かった。マスクをすると周りの微妙な音がマスクに吸収されて歩きにくい。だから手にマスクをぶら下げて歩くことにしている。「電車に乗ったら、ちゃんとマスクをしますからね」というアピールのためだ。五月の風を満喫しながら歩く。

詩人・立原道造は、24歳で亡くなる1週間前、お見舞いにきた友人に「五月の風をゼリーにして持ってきてください」と言ったそうだ。何と気障な、でも何と無邪気なお願いだろう。そんなことを考えながら歩いていたら、一陣の風がやってきて手からマスクを持っていってしまった。マスクは地面に落ちても音ひとつ立てないから拾いようがない。どうしよう。代えのマスクを持ってくればよかった。このままで電車に乗るわけにはいかない。そのとき「はい」というかわいい声が下のほうから聞こえて、マスクを手渡してくれた。「ありがとうね。いい子だね」とお礼を言って歩き始めた瞬間、後ろのほうで、咳き込みながら何かをつぶやくお婆さんの声が聞こえた。腰の曲がったお婆さんだったとは!私は「ごめんなさい」と小さく言いながら、逃げるようにして足を速めた。これも五月の風の仕業だ。そう思ったら笑いが込み上げてきた。

早く街に活気が戻ってくることを願いながらも、もうしばらく、この静けさを楽しみたいとも思う。

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載