今でもあの大きな声が私を叱咤激励する。12年前の2010年に、75歳で亡くなった榎本悠起枝さんの声だ。

弱視だった彼女が、不慮の事故と医療ミスで視覚と聴覚を失い、全盲ろうになったのは40歳を過ぎてからだった。最初は死ぬことしか考えていなかったと言う。そこから立ち直るには、想像を絶する覚悟が必要だったに違いない。

高校卒業後、彼女は様々な生き方を模索した。そして、最終的に選んだのは三味線だった。やがて、民謡界の第一人者・初代黒田幸子(くろだ・さちこ)に認められ、九条米美(くじょう・よねみ)の芸名で伴奏をするようになった。また、変化に富む音色とアレンジ力が買われ、多くの民謡歌手とも全国のステージで演奏する華やかな生活が続いた。そんなキャリアも、盲ろうになった瞬間にすべて消え去った。盲ろうになって日も浅い頃、お見舞いにもらったイチゴを口にしたとたん、「イチゴの味だけは私を裏切らないんだ」と号泣したと言う。

私が日本点字図書館の廊下で彼女と出会ったのは40年ほど前のことだった。彼女は、すでに点字の読み書きは習得していたが、盲ろう者の会話に使う指点字のことを伝えると、大変な努力の末にそれをマスターした。

彼女は「無」という言葉をよく口にしていた。五感のうちの大事な二感を失った場合、周りから情報が入らない状態、つまり空白の時間がたくさんできてしまう。これが「無」なのだ。その「無」をできるだけ避けるには、まずは点字を読めるようにしなければと、猛勉強をした。そして、短編なら数時間で読んでしまうほどの力をつけた。この年齢で点字を始めて、ここまでできるようになった人を私は知らない。小説は外国のものがほとんどだったようだ。たとえ一瞬でも、つらい現実から逃れるためには、できるだけ遠い世界に行く必要があったからだ。外出するときには、常にバッグの中に編物や点字本をしのばせていた。指点字や手書き文字で会話ができないときに、「無」を埋めるための道具だった。

やがて大勢の知人ができ、盲ろう者団体の役員として活動するようになると、盲ろう者を励ますため各地に出向いた。指点字普及と盲ろう者の交流の場を作ろうと、指点字サークルを立ち上げ、サークルは20年近く続いた。不死鳥のようによみがえった彼女は、再び楽器を持つようにもなった。以前のようにプロの民謡歌手と一緒にステージに立つことはなかったが、チャリティーイベントなどで演奏するようになった。調弦には人手が必要だったが、あとは長年の経験が物を言い、しっかりしたリズムと冴え渡る音色で聴衆を魅了した。

彼女は一人暮らしだったが、大学生から年輩者まで、常に大勢の人が彼女を慕って家にやってきた。来客があれば得意な料理でもてなした。ランニング、水泳、ゴルフ、スキー、パソコンなどにも挑戦し、海外にもよく出かけた。これらすべては恐ろしい空白、つまり「無」を埋めなければという焦りから始まっていると、彼女は告白したことがある。しかし、結果的には、そうすることで彼女の人生は豊かなものになり、周りからも慕われるようになり、何人もの人、特に盲ろう者を励ますことにもなったのだ。

疾風のように駆け抜けた人生だった。最後は病魔に侵され、自宅療養の日々が続いた。お見舞いに行くたびに、口数も少なく横たわる彼女と会うのが悲しかった。しかし、彼女は達観していたに違いない。「精一杯生き切った自分を褒めてやりたい」と。

 

毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版および点字版)に掲載