エンジェルストランペットという名前に惹かれて10センチほどの苗を買ったのは、今から15年前のことだった。草のような細い苗だった。それを鉢に植えて、ベランダに置いた。植物いじりが好きな私だが、駄目にした植物は数知れない。だから、これもすぐに枯れるだろうと、私も夫も思っていた。

ところが、茎は年毎に太くなり、幹となり、そのつど大きな鉢に移した。天井に届かないよう、時々てっぺんを切らなければならなくなった。猫のつもりがライオンになったような、鳩のつもりが鶴になったような・・・。私たちは、この木をエンジェルと呼んだ。まさに、我が家に突如舞い降りてきた天使だった。

エンジェルは、初夏と初秋と晩秋に、黄金色でラッパ形の巨大な花を下向きに付けた。花の直径は10センチ、花の付け根から花びらの先端までは20センチほどで、最盛期には一度に60輪ほどの花が咲いた。夕方から夜中にかけて、レモンとバニラと生姜を混ぜたような妖艶な香りを撒き散らすが、昼間は嘘のように何の香りもしない。

「お宅のベランダのあの木はなんですか?」と、近所の人たちからよく聞かれたものだ。3階にある狭いベランダから長い枝が張り出し、巨大な花がいくつも咲くので、遠くからでも目立った。花が満開のときには、5分ほどのところにある最寄駅のホームからも見えた。初めて我が家を訪れる人には、いい目印になった。

夏には、朝夕2リットルずつの水やりが欠かせなくなった。そんなとき、3日ほど家を空けたことがあった。駄目かもしれないと覚悟を決めて帰ってみると、全ての葉っぱが垂れ下がり、床は落ちた花やつぼみでいっぱいだった。「ごめんね」と言いながら、必死で水をやった。数日後、新しいつぼみが付き始めた。その後も、このようなことが何度かあった。こんなに邪険に扱われても、そのつど復活するエンジェルに、一種の畏れと、同志のような愛着を感じるようになっていった。

エンジェルが来てから6年目に、夫が闘病生活に入った。夫の世話をしているうちに、エンジェルへの気遣いがおろそかになりはじめた。「これではいけない。ここまで育てたエンジェルが駄目になったら、夫の病状にも暗い陰を落とすことになるのでは」と思った。

そして2年後、夫は亡くなった。ベランダの花やグリーンを見て喜んでくれる人がいなくなると、私も植物の世話から遠ざかるようになった。にぎやかだったベランダから、ほとんどの植物が消えた。だが、エンジェルだけは、駄目になりかけては立ち直った。

ある朝、夜中から勢いを増していた台風の音で目が覚めると、エンジェルの枝が壁に打ち付けられる激しい音がした。「助けて!」と呼ばれた気がして、紐と鋏を持って急いでベランダに出た。風雨の中、エンジェルの幹や枝をあちこちに結び付けた。幸い、細い枝が折れただけだった。

そんなエンジェルも、寿命が近づいたのか、ここ2、3年で花の数もめっきり減った。私とエンジェルと、どっちが先に逝くのか。私が先に逝ったら、この子の面倒は誰が見るのだろう。

そろそろてっぺんを切らなければと思い、剪定鋏を持って椅子の上に上がろうとしたところ、「やめてよ。落ちたらどうすんのよ。もっと生きてくれなきゃ困るよ」とエンジェルに言われた気がしてやめた。私も「おまえが死ぬのを見届けるまでは死ねないよ」と言い返してやった。

リビングに、夫が撮影した最盛期のエンジェルの写真が2枚飾ってある。朝日に輝くエンジェルと、夕闇に浮かぶエンジェルだ。そこには、私たちがエンジェルと過ごした穏やかな日々が流れている。

 

2021年4月

 

朝のエンジェルストランペット 夕暮れのエンジェルストランペット

 

毎日新聞社発行 「点字毎日」(点字版 活字版)に掲載