マスコミや世間でよく聞かれる言葉の中には、分かったようで分からないものがたくさんある。それらの中から、言葉としては美しくても、現実や本音とは違うと思われるものをいくつか拾ってみた。

しかし、これらは、会話やスピーチや文章に軟らかさを与え、社会の潤滑油的な役割を果たしているという点で、便利で捨てがたいものでもある。だから、「それを言っちゃおしまいよ」、「身もふたもないこと言うな」と言われれば、「そうですよね」と返すしかないのだが・・・。

 

元気と勇気

「歌は、人々の心に元気と勇気を与えてくれます」という、司会者のお馴染みのフレーズに続いて、歌手たちの歌がテレビから流れてくる。

「白樺 青空 南風」、「愛燦々と この身に降って」、と続く。

このあたりはいいとして、やがて気がつけば、「ひとり酒場で飲む酒は 別れ涙の味がする」、「あなた変わりはないですか 日毎寒さがつのります」、「あなた死んでもいいですか 胸がしんしん泣いてます」という、悲しい歌、うらぶれた夜の巷の歌が流れている。どう考えても、元気と勇気などいただけそうもない。

それなのに、コンサートが終わって、司会者が「いかがでしたか」と聴衆の何人かにインタビューすると、たいていの人が、「はい、元気と勇気をたくさんいただきました」というような応えをする。いや、そうさせられていると言ったほうがいいかもしれない。

「歌は人々に元気と勇気を与えなければいけない」、まして「歌は人々を悲しい気持ちにさせてはいけない」ということなのだろうか。それなら『三百六十五歩のマーチ』的な歌ばかり歌えばいいのにと思う。

歌に限らず、パフォーマンスとか芸術とか言われるものは人間の喜怒哀楽の反映なのだから、それによって辛く悲しい気分になる人だっているはずだ。優れた作品であればあるほど、強く感情を動かすから、それによって元気と勇気をもらったり無上の喜びを感じたりする人がいる反面、作品によっては、絶望感に浸ったり、極端な話、命を絶つ人だって出てくるかもしれない。

芸術というのは、決して健康的なものではないのだ。

 

自分らしく生きる

一見よさそうに聞えるこの言葉だが、何が言いたいのか判然としない。「全ての人が、自分らしく生きられる世の中にならなければいけない」と言われる。

その人が、これまで続けてきた生き方のことを「自分らしい生き方」というのであれば、人を騙したり万引きばかりしてきた人にとっての「自分らしい生き方」とは、やはりそういう生き方のことを言うのだろうか。そして、その人にとって、そういう生き方が性分に合っていて楽しいなら、まさしくそれが「自分らしい生き方」ということになる。

それとも、「自分らしい生き方」とは、本来自分がこうありたいと願う理想の生き方のことを言うのだろうか。「これまでのような生き方はつまらない。こんな生き方がしたい」と思うような生き方が「自分らしい生き方」なのだろうか。だが、もしそれが実現したとすれば、スポーツ選手、俳優、学者、芸術家、大富豪、詐欺師、痴漢などが、巷に溢れてしまうかもしれない。

あるいは、高望みをせずに、分相応で、しかも反社会的でない生き方のことを指すのであれば、わざわざ強調するような素晴らしいことであるとも思えないのだが。


もしかしたら、「自分らしい生き方」とは、単に「人間らしい生き方」の言い換えにすぎないのではないだろうか。憲法にある「健康で文化的な」人間らしい生活を指しているのではないだろうか。

今、個性、個人尊重、個人情報など、何につけても、全体より個人を重んじなければいけないという風潮になっている。だから、「人間」を「自分」と言い換えたほうが今風だということなのかもしれない。

そんなことなら、「全ての人が、人間らしく生きられる世の中にならなければいけない」と言うほうが、ずっと分かりやすいのに、気取った言い方をするから難しくなってしまうのだ。

それとも、「自分らしく」には、もっと別の、奥深い意味があるのだろうか。

 

努力すれば、夢は必ず叶う

これも、言葉としては美しいが、誰も信じてはいないだろう。努力すれば叶うなら、もはやそれは夢ではなく、単なる予定だ。いや、予定だって実現できないこともある。実現の可能性が低いからこそ「夢」なのだ。

夢は、いくら努力しても、実力不足やその他の障壁によって、実現できないのが普通だし、それどころか、今回の津波のように、実現するはずだった多くの夢が、命とともに絶たれることだってある。

「夢に向かって努力すれば、夢は必ず叶う」。この言葉によって叱咤激励され、洗脳され、やがて挫折していった若者たちの何と多いことか。

しかし、それでも、この言葉は言い続けていく必要があるだろう。みんなが夢に向かって努力し、その結果、夢を勝ち取る人、夢に敗れて別の道を選ぶ人、最後まで夢を追い続ける人、いろいろなドラマがあるからこそ、世の中は面白いのだから。

 

命の大切さ

確かに、殺人や自殺防止のキャッチフレーズとしてならうなづける。だが、この言葉は、今や「命至上主義」と同じ意味で使われているように思う。なににもまして、命を大切にしなければならないと。

それなら、命の危険を伴うようなスポーツや登山やカーレースなどは禁止すべきだし、全員に、毎週日曜日の健康診断を義務づけてもいいはずだ。

交通事故の危険を承知で、電車で行ける場所なのにマイカーで行く。マイカーで旅行に出かける。その結果、毎年何千人もの命が失われている。その数は、数年毎に、今回の津波による犠牲者の数に達しているのだ。

しかし、こういうことについては、あまり正面切っては言われていない。それは、例え自分や他人に命のリスクがあったとしても、人間らしい生活がしたい、少しでも楽しい生活がしたいという本音と暗黙の了解があるからだ。

命のリスクと快適な生活、これにどう折り合いをつけるか、みんな日々迷いながら暮らしているのだ。

とは言え、やはりこの言葉も言い続けていかなければならないだろう。命を軽視することに拍車がかかるのを防ぐために。

 

勉強になりました

これまでこの言葉を、何度となく口にしたり、メールや手紙に書いたりしてきた。

これは実に便利な言葉だ。相手を立てることにもなるし、ときには自分も得をした気分になるからだ。いや、もちろん気分だけでなく、本当に得をすることもある。

だが、「勉強になりました」と言った後、何が勉強になったのか自分でもよく分からないことも多い。自分の理解力や感受性が足りないのか、相手の話や文章に問題があるのか、それでも、とりあえず「勉強になりました」と言っておく。

逆に、人から「ためになるお話を伺って大変勉強になりました」と言われることもある。自分でさえ、いったい何を話したのか分からないのにと思うときなど、そんなふうに言わせてしまったことへの申し訳なさとともに、もしかしたらこの人は本当に勉強した気分になっているのではと思うこともある。

以前、「全国子供電話相談室」というラジオ番組があった。相談の最後に必ず「分かりましたか」とお姉さんに言われ、子供たちも「はい分かりました。ありがとうございました」と言って電話を切った。大人が聞いていても、とても理解できないような抽象的な回答にでも、そう応えるのが礼儀だと、子供ながらに知っているのだ。そして、その子自身も、「なんだかよく分からないけど勉強になった」という気分になったことだろう。でも、たまには「よく分からなかった」と答えてくれる子がいてもいいのにと思った。

例え気分だけでも、勉強になったと感じることは、私たちに特別な快感を与えるもののようだ。なんだか自分が高められたようで嬉しくなるのだ。

 

障害は、不便だが不幸ではない

これも、一見美しく崇高な言葉に聞えるが、どうも違和感を持ってしまう。

「不便」と「不幸」は、どう違うのか。「便利」と「幸福」とは、どう違うのだろう。「不便」も不幸の一種だし、「便利」も幸福の一種ではないのか。

広辞苑には、「便利」とは、「都合のよいこと。うまく役立つこと。」とある。また、「幸福」とは、「みちたりた状態にあって、しあわせだと感ずること。」となっている。そして、それぞれの打ち消しが、「不便」、「不幸」ということになる。

語感から言えば、「便利」、「不便」には、物理的で無機的で、一切の感情を排除するような響きがある。それに対し、「幸福」、「不幸」には、心理的で感情的な響きがある。つまり、「不便だが不幸ではない」とは、「障害があっても、そのことを嘆いたり悲しんだりしてはいけない」ということのようだ。

だが、嘆いたり悲しんだりすることは、そんなにいけないことなのだろうか。そんなに恥ずべきことなのだろうか。「障害」という状態に対しては、人間的な感情を差し挟んではいけないのだろうか。

しかし、障害を持っているという状態は、「不便」という無機的な言葉だけで片付けられるような単純なものではないはずだ。当然ながら、嘆きや悲しみや憤りといった、人間的な感情も伴うのだ。

それとも、例え心では嘆いていても、それを外に見せたりしないで、強く振る舞わなければいけないというのだろうか。素直に感情を表してはいけないのだろうか。

もちろん、悲しんでばかりいて、一向に障害を受け入れようとしないのでは、本人にとっても周囲にとっても困ることなのだが。