東京大空襲で全てを失った両親は、幼い私を連れて、二人の故郷である鳥取県の片田舎へ移った。その数年後、私は失明することになるのだが、その頃はまだ少しばかりの視力があった。
家族とともに七歳で上京するまで暮らしたその家は、親戚の物置小屋を借りて畳を敷いただけの貧しいものではあったが、視覚的な立地条件は私にとって素晴しいものだった。東と西に窓があったが、ひと部屋しかなく、周りに二階建ての家などなかったから、いつも同時に東と西の空を眺めることができたのだ。
朝は、東の空の朝焼けや朝日とともに、西の空の薄れゆく月を見ることもあった。夕方になれば、西の空の夕日と夕焼けと薄墨色の雲、そして満月の日が近ければ東の空に静かに現れる月、それらを居ながらにして眺められるのだ。まさに、「東の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)や、「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)の世界なのである。
とはいえ、これらはあくまでも窓から見上げる空の様子であり、周りにはそんな広々とした田園など広がっているわけではない。陽炎の立つ野原も、菜の花畑もなくて、低く貧しい家並みが不規則に続いていた。それでも、私にとって、太陽や月をそれらが最も美しい光を放つ時刻に眺めることができたのは幸せなことだった。まさしく「埴生の宿も我が宿」だったのである。
ばら色の朝焼け雲は見ているだけで嬉しさが込み上げてきた。慈愛に満ちた夕映えの空は一日の終わりを優しく告げてくれたが、それも次第に色あせ、わずかな残照だけになっても両親が仕事から帰ってこないときなど心細くてたまらなかったものだ。
やがて、妹と弟が生まれた。一家五人で囲む朝の食卓は、鶏小屋から取ってきた二つの玉子を分けあってご飯にかけ、干した薩摩芋をあぶって食べる、そんな貧しいものではあったが、まばゆいほどに差し込む朝日を浴びながらの食事は、私にとって何物にも代えがたい幸福な時間だった。みんなの顔も手も明るく照らされ、狭い部屋には笑い声が満ちていた。
薄暗い電灯の下での夕食は、眠りにつく前の穏やかなひと時だった。そんなとき、よく停電になり、ゆらめく蝋燭を頼りに食事をしたものだ。だが、東の窓から月が入ってくる夜は、節約のために蝋燭は使わなかった。それでも充分に明るかった。
月明かりの中での団欒は、歌や影絵や綾取りだった。「月の沙漠をはるばると」、「十五夜お月さんごきげんさん」。両親が教えてくれる歌を歌いながら、みんなで綾取りや影絵に興じたものだ。兎や狐や蝶の形を指で作り、壁に映ったその影で、喧嘩や追いかけっこをする。そうやっているうちに、いつしか眠りに落ちているのだった。
あるとき、真夜中に目覚めると部屋に月光が差し込んでおり、その冷たく白々とした光は水のように部屋の隅々にまで行き渡っていた。私は思わず起き出し、そっと家を抜け出した。
外は昼間と見紛うばかりの明るい月夜だった。月がこんなに明るいなんて知らなかった。誰も知らないことを自分だけが知ったような、そんなワクワクした気持ちになり、木の枝や鶏小屋を揺すってみたり、真っ暗な井戸を覗き込んでみたり、お寺の境内に忍び込んでブランコに乗ってみたり、しばしの間、私は初めて見るような不思議な世界をさまよった。昼間にはなかった漆黒の闇があちこちに潜んでいた。家も樹木も、いつもと同じ場所にあったが、昼間とは違う顔を見せて立っていた。見てはいけない秘密の世界を見てしまったような気持ちだった。やがて、大きな月が私だけを追い掛けてくるような気がして少し不安になり、急いで家に戻ったのだった。
全身に月光を浴びながら、こんなにもさ迷い歩いたのは、あとにも先にもこの夜くらいだったかもしれない。私は、一生分の月光を、この夜に満喫してしまったのだ。
六歳近くなった私は、近いうちに目が見えなくなることを幼いながらも予感していた。両親や叔母たちが、そのことについて話しているのを盗み聞きしていたからだ。
そして、中学生だった従姉は、今から覚悟しておくようにとまで言った。目が見えなくなるというのはどういうことか、彼女はしたり顔で話した。「停電のときのようになるんだよ」と、繰り返し教えようとした。
月も星もない夜に停電になれば、片田舎のことだから、家の中も外も、暗いというより、黒くて分厚い布が幾重にもなって辺り一面に垂れ込めたような別世界になる。だから、蝋燭の買い置きがなくなれば、その闇の中で家族は身を寄せ合ってじっとしているしかなかった。そこに、ぱっと電灯がともったときの安堵感は今でも忘れられない。
目が見えなくなったら、その闇が永久に続く。手で払っても払っても、黒い布は押し寄せてくる。恐怖心は次第に募っていった。
黒い布で覆われた世界に入ってしまったら、私の大好きな朝日や夕焼けや月光も、それらを思い描くことさえできなくなり、私とは無縁のものになってしまうことだろう。現に、停電になれば、そんなものは片鱗さえ浮かんでこないのだから。
「夕焼け小焼けで日が暮れて」、「夕やけ小やけの赤とんぼ」、「十五夜お月さんごきげんさん」、そんな歌を、目の見えなくなった私は、いったいどんな気持ちで歌うことになるのだろうかと想像してみた。
その、永久に続く停電は、いつやってくるのだろう。夜なのか昼間なのか。突然なのか、それとも忍び足でやってくるのか。
とはいえ、そこは子供のこと、普段は忘れていることが多かったが、夜、寝床に入ってから眠りにつくまでの束の間にしばしば頭をよぎり、このまま朝が来ないのではと心配になったものだ。
それは、本当にわずかずつ、気付かれないように、そっと、そっと、私に近寄ってきた。そして、私は知らぬ間に、あれほど恐れていた別世界へ、いつの間にか足を踏み入れていたのだった。
だが、そこは、「闇」でもなければ、「黒」でもなかった。かといって、それまでのような明るいものでもなかった。明るくも暗くもない状態、それは、濃淡のグレーの霧の中にいるような、モノトーンな世界だった。失明するということは、「明」ばかりでなく、「暗」も失うことなのだ。
幸いにも霧のキャンバスがグレーなので、私は無意識のうちに、そのキャンバスに濃淡の光や色を描くようになった。もし、キャンバスが黒一色だったら、黒いキャンバスに絵を描くのが難しいように、おそらく、そんなふうにはできなかったことだろう。
今も、私のキャンバスに描かれるものは、六十年ほど前に、わずか五年しかいなかった、あの「埴生の宿」での光景が元になっている。失明してからは、新しい映像が記憶に上書きされることがないので、それらを材料にして、時と場合に応じたバリエーションを加えているのである。
あのときの朝焼けや夕日や満月は今でも色あせていないし、また、一人でさまよい歩いた「あの夜」以来、月光を描いた音楽は、声楽家である私のファンタジーを、今なお掻き立て続けている。
シューマンの歌曲「月夜」には、森もざわめきを潜めた、あの世ともこの世ともつかない神秘的な初秋の月夜を思う。フォーレの歌曲「月の光」には、春の宴を彩る耽美的な朧月夜が浮かぶ。シューベルトの歌曲集「冬の旅」の第一曲「おやすみ」では、失恋して死出の旅に出ようとする孤独な若者の影を雪の上に映し出す冷徹な冬の月を思う。グレンミラー・オーケストラの「ムーンライトセレナーデ」には懐かしさとアンニュイを漂わせた夏の月を、ドビュッシーのピアノ曲「月の光」には秋風に雲が揺れるたびに去来する冴え冴えとした月を思う。
そして、このような感覚を持てるようになったルーツは、いつの季節だったかも分からない「あの夜」にあるのだ。
あれほど怖かった停電のときの漆黒の闇も、「暗」を失った今となっては、妙に懐かしく、魅惑的でさえある。
七歳で上京して以来、私はこれまでに六回の引越しをした。新しい家に移るとき、まず最初に確かめるのは、どちらが東で、どちらが西かということだ。朝日と夕日の方向を、しっかりと頭に入れておかないと気が済まないからだ。私にとって、家というのは、朝日と夕日が差し込むものでなければならないのだ。
どんなマンションに移ろうと、私の心象風景は、あの「埴生の宿」のときのままだから、例え東と西に窓はなくても、東側から朝日が差し込み、夕日が西の部屋を染め、丸い月が東の空から見下ろしているのである。