私が、いずれ完全失明することを医師から告げられていた両親は、幼い私が喜びそうなものを何でも見せようとした。
ある日、父と汽車に乗っていたときのこと、私が、線路の向こう側に咲く白い花を欲しそうに見ていると、発車間際だったにも拘わらず、父は駅員の制止を振り切り、汽車から飛び降りて走っていった。発車の汽笛が轟く中、泣きながら待っていると、花を手にした父が、駅員に怒鳴られ、乗客たちの罵声を浴びながら、息を切らして戻ってきた。六歳の私には、そのときの父の気持ちなど知る由もなかったが、それでも、ただならぬ気配を感じ取ったためか、あの数秒間の光景は今でも脳裏に焼きついている。
片田舎の、しかも戦後の極貧生活では、なにひとつ贅沢はできなかったが、両親は私を喜ばせようと、蛍狩、夏祭り、花火大会、校庭での映画会と、ことあるごとに私を連れていってくれた。どれも懐かしい思い出だが、中でも、あの白い花の記憶は親心の切なさというものをしみじみと感じさせてくれるのである。
恋心の切なさは、片思いのままでもずっと続くだろうか。あの名曲『百万本のバラ』に歌われている貧乏画家は、恋い慕う女優のために、家も画材も全て売り払って広場を百万本のバラで埋め尽くした後、彼女が街を去っていくのを人知れず見送ったというけれど、それでも、やがて「昔、そんなこともあったさ」とうそぶくに違いない。
だが、親心の切なさは、例え片思いだったとしても、また子供にどんなに素っ気なくされようとも消えることはない。何の見返りも求めることなく、一生続くのだ。
真っ赤な百万本のバラと、一輪の白い花。どちらに込められた思いに価値があるかなどと比べるのは無意味だ。どちらも、それぞれに美しく、それぞれに切ない。
思えば、私もずいぶん長い間、両親につれなくしてきたものだ。結婚以来、実家にもあまり行かず、たまに行っても用事を済ませてそそくさと帰った。「もう帰るのか」、「今度いつ来る」という言葉を背に受けながら。
やがて母が逝き、独りになった父のために、私たち兄弟は足繁く父のもとに通うようになった。そして私も、何十年ぶりかで父とたっぷり話した。なぜもっと早くそうしなかったのかと悔いた。父は、堰を切ったように、子供たちとの楽しい思い出を語った。
話は、東京大空襲で火の粉の舞う中を私を抱えて逃げ惑ったときのこと、そして全てを失って故郷へ帰ったこと、小学校しか出ていないためになかなか昇給できなかったこと、「みんなの家のように電話が欲しい」と子供たちにせがまれたときの申し訳なさ、お弁当を持って家族五人でユネスコ村へ遊びにいったときのこと、カメラが買えなかったのでその頃の写真は残っていないこと、呼び出し電話での連絡もなしに度々徹夜マージャンをして家に帰らず母にこっぴどく叱られたこと、子供たちが次々とフィアンセを連れてきたときのエピソード、などなど多岐に渡っていたが、それらはどれも父の脳裏に強く焼きついた思い出だったに違いない。
しかし、最も強く焼きついていたであろうはずのことを、父は一度たりとも口にすることはなかった。
それは、私が生まれてから八歳頃に完全失明するまでの苦悩、戦中戦後のドサクサで思うように治療を受けさせられなかった無念、そしてその後も続いたであろう苦悩の日々のことである。いくら年をとったからといって忘れるはずはない。だが、それらは心の奥深く閉じ込めておくべきこととして、常に記憶の出口に鍵をかけようと努めていたのではないだろうか。しかも強固な鍵で。
高齢のため、その言動にはほとんど抑制が効かなくなっていたので、突然泣き始めたり、それまで打明けたことのない話まで口にしていたくらいだから、それは余程強固な鍵であったに違いない。
父も、あの白い花のことを覚えていたのだろうか。
そして一年後、父も母のもとへと旅立ったのである。