「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯(ウグイス) 歌は思えど 時にあらずと声も立てず」。今、まさにそんな季節だ。
聞こえる鳥の声は、烏(カラス)や雀(スズメ)やヒヨドリばかり。風が吹いても、葉を落とした木々は何の音も立てない。真夜中ともなれば、漆黒の闇ならぬ、水を打ったような無音世界が広がる。だが、それもあと数週間のこと。春への準備は着々と進んでいるのだ。
まもなく、梅が咲き、沈丁花(ジンチョウゲ)が咲き、雲雀(ヒバリ)や四十雀(シジュウカラ)がさえずりはじめる。そして、日本列島を桜前線が北上してくる。その様子が毎日のように報道される。花の美しさはもちろんのこと、入学や卒業や就職の時期と重なっていることもあり、桜の開花は日本人に特別な感情をもたらすようだ。また、花が散り始めれば、愛惜の言葉を口にしながらも、その様子を愛(め)でる。夜桜にうっとりし、花吹雪に見蕩(みと)れる。これが、古代から延々と繰り返されてきたのだ。そして、これからも……。
以前、ある著名な文化人のMさんがラジオでこう言っていた。「電車に乗ったら、すぐ前の席に目の見えない若い女性と付き添いらしき女性が座っていました。わあ! すごい! 桜が満開!と、付き添いらしき女性が言いました。なんと惨(むご)いことをするのだろうと思いました。目の見えない人に向かってそんなことを言うなんて」。この話を友人にすると、「Mさんの言うことは間違ってるよ。見えたものの様子をそのまま伝えるのが付き添いのあるべき姿じゃないか」との答えが即座に返ってきた。その通りだ。だが、Mさんの気持ちもわかる。Mさんがそう思うのはごく自然なことだ。普段、視覚障害者に接していない人たちのほとんどが、そう思うに違いない。それほどに満開の桜は美しいということなのだ。正直なところ、桜前線が近づいてくる頃になると、私の気持ちも微妙に揺れる。しかし、そのことも含めて、私にとっての「春の訪れ」を味わいたいと思う。
70数年前、盲学校の入学式のとき、校庭の桜は満開だった。「あれが桜だよ」と父に言われても、私には単なる白い塊にしか見えなかった。まもなく全盲となったが、その後長い年月をかけて私の中の桜は成長していった。手で触れたときの印象や詩歌や音楽、そして、桜にまつわる悲喜こもごもの思い出が、知らず知らずのうちに、そのようにさせたのだ。
花も終わり葉桜の季節になると、桜並木に爽やかな香りが漂うようになる。そう、誰もが知っているあの香りが……。ここからは花より団子のお話になる。
桜餅の香りは、桜の葉を塩漬けにすることで生まれる。だが、塩漬けにするには時間がかかる。それに比べ、桜の葉の天麩羅(てんぷら)は瞬時に作ることができる。しかも、その香りの高さは桜餅の比ではない。「桜の葉を天麩羅にしてみよう」と思い立ったのは、40年ほど前の、ある夕方のことだった。子供たちに採ってきてもらった桜の葉の片面に衣をつけ、高温の油でさっと揚げてみた。一瞬にして、桜の葉の香りが部屋中に広がった。それは、ちょっと苦味のある美味な天麩羅だった。同じ油で鶏のから揚げを作ったところ、それにも緑の香りが移った。以後、これは我が家の初夏の定番料理となった。だが、一人暮らしとなった今、手のかかる料理は一切やめてしまった。私にとっては、美味(おい)しさを共有できる人がいてこその料理だったのだ。
さあ、元気を出して外に出よう。春の息吹を胸いっぱい吸い込むために!
毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版および点字版)に掲載