「これも自然淘汰の1つかもしれないね」。
Aさんが発したそのひと言に、私はぎょっとして二の句が継げなかった。あと15分もしたら、私は乗り換えのために電車を下りなければならない。そんな短い時間の中で反論などできるわけもない。お互いに嫌な気持ちで別れることになるだけだ。
その数日前、私の盲学校の後輩である全盲の男性が、JR目白駅でホームから転落し、電車にはねられて亡くなるという痛ましい事故があり、広く報道された。Aさんのひと言は、その事故の話題が出た直後だった。
「ヒットラーみたいなことを言うんですね」と言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。彼は続けた。
「ちゃんと注意していればホームに電車が近付いてくる音くらい聞こえそうなもんだ。それなのに、なぜ歩いたりしたんだろう。自分の身は自分で守らなきゃね」。
人も疎らで静かな田舎の駅ならともかく、都会の騒がしい駅では、電車がよほど近付かない限り音など聞こえるわけがないのに、なぜそんなふうに自信を持って言えるのだろう。
なおも彼は疑問をぶつけた。どうしても合点がいかないというふうだった。
「危険な場所は、1人で歩こうとしないで周りの助けを借りればいいんだよ。僕も、白杖をついた人に他のホームまでの誘導を頼まれたことがあるよ。それもしないで、安全対策だ何だと要求ばかりするなんておかしいよ。それも、みんな税金から出てるんだからね。自分の身は自分で守らなきゃ」。
全盲者なら、手助けをしてもらいたくても、人をつかまえること自体が大変だし、まして毎日のように通勤・通学している人だったら、乗り換えの度に手伝ってくれる人を探すのがどれだけ大変なことか、彼には想像もつかないのだろう。
私は、黙って聞いているのが苦しくなってきた。いい子ぶって何1つ言えず、彼の言うことにうなずいてばかりいる自分が情けなかった。これでは、犠牲になって亡くなった人たちや、重傷を負って後遺症に苦しむ人たち、そして神経を磨り減らしながらホームを歩いている仲間たちに申し訳ないではないか。
「自分の身は自分で守れって言うなら、踏み切りの遮断機も警報器も、道路のガードレールも必要ないんじゃないの?」と言い掛けてやめた。
「税金・税金って言うけど、国公立大学、特にAさんが出たような芸術系の大学では、学生1人あたり1年間に何百万もの税金が使われていると聞いたけど」なんて言えるわけもない。もし彼が「芸術は世の中全体に貢献するからね」とでも言ったとしたら、 売り言葉に買い言葉で、「それなら、障害者の命を守ることより、Aさんたちが大学で芸術を学ぶことのほうが世の中のためになるのね」と、際限なく泥沼に落ちていくだけだ。
乗り換え駅がだんだん近付いてきた。「これも自然淘汰の1つかもしれないね」という言葉が耳から離れない。確かに、障害者ゆえに起きた事故なのだから、自然淘汰の1つと言えるのかもしれない。だが、世の中に適応しにくい人間が滅びていくのは、自然の法則だからしかたないということなのか。仲間の自然淘汰をできる限り阻止しようとするのが人間というものであり、そこが他の生物との違いではなかったのか。
私は、必死になって、なんとか好意的に解釈しようと試みた。おそらく、彼は人間界の自然淘汰を肯定したわけではないだろう。「適応しにくい生物は自然淘汰される」という、生物の教科書の1節でも思い出し、ふと、それが口をついて出ただけなのかもしれない。いずれにせよ、「これも自然淘汰の1つかもしれないね」のひと言に反応して、人間を人為淘汰したヒットラーを引き合いに出すのは短絡的な思考かもしれないと思えてきた。
そう考えているうちに、ヒットラーのように思えていた彼が、特別な人でもなんでもなく、今この電車に乗り合わせている他の人たちと同じなのかもしれないという気がしてきた。
私が頼んだわけでもないのに、彼はわざわざ途中下車して、当然のように私を次の電車に乗せてくれた。それでも、まだ興奮冷めやらぬ私は、ドアが閉まる前に、彼に向かって叫んでいた。
「Aさんも、Aさんの家族も、いつ障害者になるか分からないんだからね。あすは我が身なんだから気をつけてね!」。