先月、また一人、「雑木林」の仲間が旅立った。「雑木林」は、盲学校の高等部のときの同級生仲間で作るメール・マガジンだ。第1号が発行されてから、この7月で10年になる。

あれは、東日本大震災から4ヶ月近く経った頃のことだった。日本中が、やり場のない焦燥感に覆われていた。東北から九州までに散らばっていた15人のクラスメートは、普段ほとんど連絡しあうこともなく過ごしていたが、誰かが東北に住む仲間の安否を問い合わせたことがきっかけで、卒業してから半世紀ぶりに再び連絡を取り合い始めた。そして生れたのが「雑木林」だった。見かけも性格も違う木が集まっているというくらいの意味を込めた命名だったように記憶している。メーリング・リストでは自然消滅しやすいので、編集長を決めてメール・マガジンの形にした。編集長のところに何通かのメールが集まった時点で、みんなに配信するという方法だ。そして、「雑木林」はもうすぐ800号を迎えようとしている。将来への不安を抱えながら、最も多感な時期を共に過ごした仲間たちだが、年輪を重ねて老木となった今、「雑木林」を通して、当時のわだかまりや嫉妬や誤解は消え、互いに励ましあういい関係になっていった。

パソコンを開くたびに、「雑木林」が届いていないかと気になる。「雑木林」には、その時々の喜怒哀楽や、慰めや激励や忠告の言葉がある。手術の成功を病院から知らせてくる人。抗癌剤がなかなか効かなくて悩む人もいた。仕事や家庭の悩みを書き込む人。今なら笑って話せる若い頃の嫁・姑の葛藤。プロ野球の話になると俄然元気になる人。政治や宗教についてのバトルが繰り広げられて、ハラハラさせられることもあった。私が7年前に連れ合いを亡くしたときも、大いに助けられたものだ。

そして、「雑木林」はこの10年の間に5人の仲間を失った。認知症が進んでいく妻のことを最後まで気にかけながら病気で旅立った人。長年癌を患いながらも、クリスチャンとして気丈に生きぬいた人。高齢者施設で暮らしていた仲間がいつのまにか亡くなっていたこともあった。彼女の遺品整理をしていた娘さんが、携帯に残されていた「雑木林」からの安否を問うメッセージを発見し、「雑木林」に投稿してきた。そこには、長年にわたる母への思いや、母を励まし続けた「雑木林」へのお礼の言葉が切々と綴られていた。会ったこともない娘さんだったが、私たちは驚きと感動をもってそれを読んだ。

そのうちメール・マガジンだけでは飽き足りず、年に一度、東京でクラス会を開くようにもなった。遠くの人は泊りがけで参加した。酔いがまわり、これまで口にすることのなかった若い頃の過ちを懺悔する人もいた。イデオロギーの違いによるバトルを止めるのに苦労することもしばしばだった。高校時代は弱視で、全盲生たちを引き連れて繁華街に繰り出していた人が、中年を過ぎてから全盲となり、手探りでゆっくり慎重に、みんなのテーブルを回り歩いている様子に、これまでの苦労がしのばれた。次回の幹事を決めてお開きになった後も、名残惜しんで二次会・三次会と続く。マスクが取れて再び一堂に会することができるまで、みんな元気でいてほしいものだ。

障害者として、社会人として、また家庭人として生きてきた日々を懐古しながら、「いろいろあったけど、まずまず幸せな人生だった。この先も無事に年輪を重ねていきたいものだ」との暗黙の思いが、今日も「雑木林」に込められている。

 

毎日新聞社発行「点字毎日」(点字版および活字版)に連載中のエッセイより