久しぶりに、まとめて針仕事をした。とれたボタン、ほつれた裾や袖、底が抜けたポケット・・・。面倒で、そのままにしておいた案件を、今日こそはと思い、リビングのテーブルに向かった。
普段、テーブルで作業するときは、CDやテレビやラジオを聴きながら、また、週刊誌や小説などの録音を聴きながら、ときには熱いコーヒーなどを飲みながら、ついでにお菓子なども摘まみながら、つまり、できるだけリラックスした状態で行うようにしている。ただし、パソコンを使う作業では、コーヒーはやめておいたほうが無難だ。
しかし、針仕事はちょっと違う。木綿糸、絹糸、木綿針、絹針、糸通しの道具、鋏・・・。それらを特定の位置に置く。糸には、それぞれに点字で色の名前が付けてある。鋏などは床に落ちても大きな音がするが、その他のものは微かな音しかしなかったり、ほぼ無音だったりする。だから、落ちたことに気づかなかったり、気づいても拾うのに苦労したりする。針などは、落ちたままにしておくわけにはいかない。だから、コーヒーも音楽も小説も断ち、ストイックに作業は進んでいく。もちろん、電話の電源は切る。インターホンが鳴ったときは、手に持っているものをそれぞれの所定の位置に戻してから対応する。
静寂の中を、自分の呼吸する音や鋏の音や生地の擦れる音だけが支配する。うっかり何かを落としたときは、瞬間的に呼吸と手の動きを留め、着地点を聴き定める。針などはそれほど遠くへは行かないが、紙のように表面積の大きいものは、とんでもなく遠くに着地したりする。
すべての作業と後片付けが終われば、リラックス・タイムとなる。
この作業をしながら、ふと思い出したことがある。それは、50年以上も前のことで、上の子の離乳食が始まった頃のことだった。離乳食の時間になると、微かな音に集中するために、テレビやラジオを消し、窓を閉める。食べ物を飲み込むときの小さな音。それは、縫い針の落ちる音より微かで大事な音だった。その音を聴く前にスプーンを口に近づけると、子供は食べ物を吐き出してしまうのだ。確実にスプーンを運ぶには、その微かな音を聴きとらなければならない。
このようにして、離乳食が何とか軌道に乗り始めた頃、思いも寄らない事態が起きた。蝉時雨が家の周りを囲み始めたのだ。当時住んでいた家は襤褸家ではあったが、豊かな緑に囲まれていた。たとえ鍵をかけても、建付けの悪い窓からは、蝉時雨がシャワーのように侵入してくる。困った!どうしよう!飲み込む音が全く聞こえない!せっかく順調にここまでくることができたというのに・・・。
だが、その心配は杞憂に終わった。子供は、食べ物を飲み込んだ瞬間、スプーンを自分の手で引き寄せるようになった。そうなると、子供に話しかける余裕も生まれ、離乳食も無事に終えることができた。子育ての先輩方の体験を、もっと聞いておけばよかったと反省したものだ。はるか昔のことではあるが、このことはちょっぴりの痛みと笑いを伴って、今も私の脳裏を掠めることがある。
さて、今日は素晴らしい小春日和だ。ベランダの枯れた花や葉を摘むのに絶好の日だ。空気は程よく乾き、枯れた花や葉は、ちょっと触れただけでカサカサと微かな音を立てる。「ここにいるよ」と、私に教えてくれるのだ。
夜にしか鳴かなかった鐘叩きが、秋の日溜まりの中で、一匹だけ鳴いている。「私は、ここにいるよ」と。消え入りそうな微かな声で・・・。

毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版・点字版)に掲載