「抜けるような青空」という言葉がある。自然美を表す言葉として、これ以上のものはないように思う。日本で「青空」という言葉が庶民の間で日常的に使われるようになったのは、戦後になってからだという。サトウハチローの詩による「長崎の鐘」と、「リンゴの唄」により、一気に広まった。どちらの歌も短調で始まる。「悲しいまでの青空」も、その美しさの一面を表しているのだ。
視覚障害者へのインタビューを続けている人が言っていた。「今、一番見たいものは何ですか?」との質問に対して、最も多かった答えは「空」、または「青空」だったとか。空を見た経験のない人であっても同じだったそうだ。
これは、何百万年もの間、昼間の空の下で活動してきた人類に組み込まれた本能のようなものかもしれない。朝の空の様子を見ることで、その日の狩猟や採集の計画が決まるのだから。
今の世も、一日の始まりを象徴するのはやはり「空」だ。見えなくても「朝の空」を体感する方法は、人によっていろいろだ。窓を開け、朝風や鳥の声、朝日の温もり、人々の足音や、電車や車の音などの生活音から思い浮かべたりする。
私は、毎朝、ベランダに朝日が差す頃、植物たちに水をやることを日課にしている。それは、同時に朝の空を思い浮かべるひと時にもなっている。
若い頃には、ダイナミックな夜明けを何度も体験したものだ。それは、夜明け前から日の出にかけて、家族や鳥好きの仲間と出かけたバード・リスニングでのことだった。
静まりかえった夜明け前の森には、ソロを好むアオバズクやトラツグミのノクターンが流れ、ヨタカが、いつ果てるとも知れないリズムを刻んでいた。そんなとき、すぐ前の枝でフクロウの不気味な低音が聞こえたりすると、びっくりして思わず後ずさりしたものだ。夜の森には、ムササビの叫びや蛙のつぶやきなども聞こえ、静かなノクターンにユーモラスなアクセントを与える。人に出くわすことはめったにないが、そんなときはお互い気まずい感じで「どうも」と言ってすれ違う。
やがて、はるか東のほうから朝のさえずりが聞こえはじめる。私たちは、ここで懐中電灯をしまい、森を出て、東の空から西の空まで見渡せる場所へと向かう。
近くでは、まだノクターンが続いている。はるか東のほうからは、微かに朝の鳥のコーラスが聞こえてくる。コーラスのメンバーは、まだ判別できない。ノクターンは刻一刻と西に移り、やがてダイナミックなコーラスが東から押し寄せてくる。地球の自転を、これほどリアルに体感できるチャンスはめったにない。そして、朝の空を体感できる場所として、これ以上の場所はないように思う。
コーラスは、空に浮かぶ大パノラマのように、少しずつ厚みと広さを増していく。まずは、力強いクロツグミのファンファーレが大空いっぱいに響き渡る。そして、何やら愉快そうに話しかけてくるキビタキ。クレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返しながら、自分の歌に陶酔しているミソサザイの長い歌。青空に溶け込んでしまいそうなオオルリの気高い歌。鋭いキジの叫び。ホオジロやイカルの甘えたようなおしゃべり。単純な打楽器に徹しているツツドリ。都会のどこにでもいるシジュウカラやヒヨドリも、ここで聞けば一段と晴れやかに聞こえる。
そして、この壮大なコーラスは、自分と青空とが一体になったような感覚を私に与えたものだ。
私は今日も、朝のベランダに立つ。あの空の大パノラマを思い浮かべながら。
毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版および点字版)に掲載