あれは37年前の、底冷えのする夕方のことだった。そのとき、私たち家族が「保育園のおじさん」と呼んでいたその人が初めて我が家に上がってきたのだった。4年近くも2人の子供たちをかわいがってくれていたのだが、その間、いくら誘っても家に入ろうとしなかった。そのときも「いえいえ、私のようなものがお邪魔しては・・・」と言って、玄関前で帰ろうとした。丁度そのとき夫が帰ってきて、「寒いですから、どうぞ上がってください」と何度も誘ったこともあり、その人は遠慮しながら家に上がってきた。そして、誰にも打ち明けたことのないという事実をその人から聞かされたのだった。

その人は、戦前・戦後を通じて活躍し、日本人なら誰でも知っている作曲家・古関裕而の従兄弟だというのだ。「私は飲んだくれで金銭的にも迷惑をかけたので、あの一族の中にいられなくなって、それから、ずっとこんな生活をしているんです」と言った。そして、その夜以降、私たちはその人に会うことはなかった。それから間もなく、私たちは引っ越すことになったからだ。

その人は、娘と息子が通っていた保育園の近くの施設で暮らしていた。施設にはホームレスだった人たちがいて、そこから日雇いの仕事に出ていた。その人にひと言お別れを言いたいと思い、施設の職員に聞いたが、彼の所在はすぐには分からず、そのまま引っ越すことになってしまった。4年間も優しく声をかけてくれた人にお礼一つ言わずに別れたことを、今でも後悔している。

全盲の私には分からなかったが、彼はホームレス風の身なりをしていたらしく、道ゆく人たちからは何となく敬遠されていた。彼は、私が子供たちを連れて歩いているときに話しかけてきた。マーケットからの帰りだったり、公園へ遊びにいく途中だったりした。どこからともなく、ひょっこり現れては優しく声をかけ、子供たちにお菓子をくれた。話の内容はどうということもないものだったが、それでも、かなりの教養人であることが端端に感じられた。彼は、施設の職員から「古関さん」と呼ばれていた。私は、「古関なんて、古関裕而くらいしか知らないけど、珍しい名前だなあ」くらいに思っていた。古関裕而の従兄弟だと知っていたら、もっといろんなことを聞きたかったのにと、今でも残念に思っている。この話をすると、「古関裕而の従兄弟って本当なのかな?」と疑う人もいたが、私は本当だと思っている。なぜなら、有名人の名前を語ることで自慢したいのであれば、何年間も誰にも言わずにいるわけがないからだ。

明治40年生まれの私の父は、古関裕而より2歳年上で、彼の歌をよく口ずさんでいた。子供の頃からそれを聞いていた私は、その気品と哀感に満ちた歌が好きになっていった。私が小学2年生のときに始まったラジオドラマ「君の名は」に出てくる名曲をはじめ、神秘に満ちた「サロマ湖の歌」、重厚な響きの「白鳥の歌」、爽やかで軽快な「あこがれの郵便馬車」や「高原列車は行く」など。今でも、古関裕而の歌を聞くと、在りし日の父の声と古関さんのことが思い出される。

37年前のあの夜以来、「保育園のおじさん、どうしてるかな?」、「こっちの連絡先くらい教えておけばよかったね」などと、時々、夫や子供たちと話していた。やがて子供たちも家を出てゆき、夫も5年前に亡くなった。古関さんのことを話す相手がいなくなると、古関さんを思い出すこともめっきり減った。先日、ある人に誘われてなつメロを歌う会に出席したところ、古関裕而の作品をはじめ、懐かしい歌が次々と歌われるのを聞くことができた。私も「長崎の鐘」を歌った。そうしているうちに、古関さんのことが一気に思い出されてきた。あの寒い夜、私のピアノに合わせて古関さんも「長崎の鐘」を歌った。積もり積もった思いが溢れてきたらしく、彼は途中で何度も声を詰まらせたのだった。

最近、彼が暮らしていた目黒区大橋にある施設「愛隣会」に問い合わせてみたが、経営者も変わり、名簿も残っていないとのことだった。せめて下の名前だけでも聞いておけばよかった、そうすれば親子でお墓参りくらいできたかもしれないのにと、また後悔している。

来年は、古関裕而夫妻をモデルにした「エール」が、NHKの朝ドラで放映される。そこで、古関さんの片鱗でも見ることができればと期待しているのだが・・・。

日本エッセイスト・クラブ会報(2019年冬号)に掲載