私が初めて音楽というものに接したのは、NHKラジオで毎朝放送されていた「歌のおばさん」でした。戦後まもない頃で、しかも鳥取県の片田舎でしたから、学校や幼稚園には足踏みオルガンしかなく、ピアノはラジオでしか聴いたことがありませんでした。ですから、1951年、7歳で家族とともに上京し、東京教育大学附属盲学校の小学部に入学してピアノというものに触れたときは、大感激したものです。
点字楽譜を教えてくださったのは、当時、小学部の音楽の先生だった志賀静男先生でした。その頃、点字楽譜を教えることのできる先生は全国的にも少なく、その意味ではラッキーだったと思います。当時、附属盲学校では箏を習っている子が多く、私も高等部音楽科の先生だった森雄士先生に習いました。先生は、箏曲の楽譜を毎回パーキンスブレーラーで打ってくださり、私にとって点字楽譜は、さらに身近なものになりました。やがて古曲のレッスンが始まると、飽きっぽい私は、レッスンについていけなくなり、13歳くらいでやめてしまいましたが、点字楽譜が読めたおかげで、宮城道雄先生の伴奏で歌うという栄誉に恵まれたのです。
それは、小学部4年のときでした。宮城先生作曲の童謡を歌う子供を探しているという情報を聞いた志賀先生が、私を推薦してくださったのです。音源はなく、あるのは墨字の楽譜だけ。テープレコーダーを持っている人など身近にはおらず、しかも演奏会までに数日しかないとのこと。そこで、志賀先生が楽譜を点訳してくださり、私はそれを必死で憶えて演奏会に臨むことができたのです。「ありがとうね」と言って握手をしてくださった宮城先生の優しい声と温かな手の感触は、70年経った今でも、はっきり覚えています。その2年後、宮城先生は不慮の事故で亡くなってしまったのです。
箏をやめてからの私は、42歳になるまで、先生に就いて音楽を習うということはありませんでした。ただ、歌うことは好きだったので、平井点字社(楽譜の点字図書を専門に出版していた会社で2007年に事業閉鎖)から購入した歌曲の楽譜を読みながら、シューベルトなどの歌を覚えて自己流で歌っていました。そのうち、一人で歌っているのがつまらなくなり、時々人に伴奏をお願いするようにもなりました。
42歳の頃、たまたま私の歌を聴いた音大の先生から、声楽を習ってみたらどうかと言われ、先生を紹介してくださいました。私は、先生に就くのは、ほとんどが音大を出た人だと思っていたのです。
48歳のときに受けた、第3回「奏楽堂日本歌曲コンクール」で二次予選まで進んだため、毎年受け続け、4回目で本選まで進み、入選することができました。また、55歳のときに受けた、第7回「太陽カンツォーネ・コンコルソ」(クラシック部門)では、思いがけず優勝することができ、以後、毎年、浜離宮朝日ホールで行われるカンツォーネのコンサートに出演させていただいています。なお、第6回の優勝者はテノールの秋川雅史さんでした。昨年、80歳のときに再び受けた、第35回「奏楽堂日本歌曲コンクール」では、第3位に次ぐ奨励賞をいただくことができました。
楽譜については、楽譜点訳の会の方々に本当にお世話になりました。幸い、器楽に比べ、声楽の場合は点字楽譜が単純なので、新しい曲を歌う場合には、誰かに楽譜を読んでもらい、それを聴いて自分で点訳することもあります。
現在、私は81歳。歌人生も終楽章に入り、まもなく幕が下りることでしょう。それまでは、私を支えてくださった方々に感謝しつつ、歌っていきたいと思っています。