「貴方は もう忘れたかしら 赤い手拭 マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋……」(喜多條忠作詞 南こうせつ作曲「神田川」)
この歌を聴くと、たいていの人が懐かしさや切なさや温かさの入り混じった気分になることだろう。やがて、「若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった」という、そこはかとない不安は現実のものとなり、二人の幸せな日々は終わる。 この歌は1973年に世に出たというから、もう50年以上、何度となく聴いてきたことになる。聴きながら思う。「その後この二人はどうなったのだろうか」と。そして思い出す。短い間ではあったが、4畳半ひと間のアパートから銭湯通いをした新婚時代が私にもあったことを。そしてその後に続く五十数年、4度の引越しをした。子供たちも独立し、今、私はひとりになった。
家に風呂のある生活があたりまえになった今だが、この歌を聞き終わる頃になって、いつも脳裏に浮かぶ切ない光景がある。それは、子供の頃に通った銭湯でのことだった。
故郷では、週に2、3度、近くにある親戚の風呂を借りていた。子供にとって五右衛門風呂はただただ恐ろしかった。戦後間もない頃のことだった。
7歳で上京してからは、銭湯通いが始まった。そこで待ち受けていたのは、五右衛門風呂とは違う辛さだった。すでにほとんど視力を失っていた私にとって、そこは耐え難い場所だった。広々とした風呂場は、幾重にも重なった残響の渦で満たされていた。子供の泣き声、親の叱る声、子供同士のけんか、水を流す音、桶と床がぶつかる音・・・。硬くて平らな床や壁に当たったこれらの音は、あちこちに跳ね返り絡み合う。音の方向はよくわからず、自分のいる位置や向きもわからなくなってくる。自分のタオルやせっけんも勝手に位置を変えられてしまう。それを探そうとして手を動かせば、手が人に当たったりする。なにしろ皆裸なのだから、水道の蛇口ひとつ探すにも勇気がいる。
母や妹と一緒に行くことが多かったが、彼らのいる位置がよくわからず、赤の他人に向かって話しかけてしまうこともしょっちゅうだった。子供ながら情けなかった。
立っている人や歩いている人や座っている人の間をそーっと縫うようにして移動する時は、細心の注意を払うことになる。このようにして、ようやく一人で脱衣所に出ても自分の脱衣籠が見つからなかったりする。他人の脱衣籠を勝手に移動させる無神経な人たちがいるのだ。
我が家の銭湯通いは、私が中学生になるころまで続いたように思う。家に風呂のあることのありがたさをしみじみ感じたものだ。
盲学校時代の同級生から、最近こんな話を聞いた。学校を卒業して数年たった頃、彼は自分の弟と、しばらく同じアパートで暮らし、たまに一緒に銭湯へ行くことがあった。ある日、彼は番台のおばさんに呼び止められた。「折り入ってお願いがあります。弟さんに、私の娘をもらっていただけないかしら。いつも優しくお兄さんの面倒を見ている姿に感動しています。あの人だったら、きっと娘を幸せにして下さると思うんです」。弟にその話をすると、「家の身分が違うので断ってほしい」とのことだった。しかし、本当の理由は他にあった。
彼には片思いの人がいたのだ。そして独身のまま、3年前の夏に76歳で亡くなったとのこと。彼もまた「神田川」を聞くたびに、彼女のことを思い出していたのだろうか・・・。
毎日新聞社発行「点字毎日」(活字版・点字版)に掲載