あれから14度目の4月が巡ってきた。それは、2012年4月半ばの激しい雨の夜のことだった。検査入院中の夫の主治医から電話があった。「やはり予想通りでした。アスベストが原因の悪性胸膜中皮腫でした」。それは「不治の病」の宣告だった。覚悟はしていたものの、意識が遠退いていくのを必死に耐えながら立ち尽くしていた。ふと我に返り、子どもたちに電話をした。
その2年ほど前から、息苦しさの症状が出る度に検査を受けていたが、原因は不明のままだった。悪性胸膜中皮腫の潜伏期は平均41年とのこと。それを聞いて、夫も私も、あることに思い当たった。「原因は、あれに違いない」と、ほぼ確信した。
夫は、長女が生まれた1973年に、かねてからの希望が叶い、県立高校から盲学校へ転任することができた。そこで夫が弱視の生徒のためによかれと思ってやっていたこと、それは、チョークを二つに折り、そのチョークを黒板に寝かせて太い字を書くことだった。チョークを折るたびに、その粉が飛び散った。1980年代の初めまで、チョークには微量のアスベストが含まれていた。そのアスベストを毎日のように吸い込んでいたのだ。
この病気には、健康被害救済制度などの社会保障の申請が可能とのことだった。しかし、私たちは申請しないことにした。「協力するよ」と言ってくれた友人たちもいたが、私は断った。チョークと病気との因果関係を証明するための時間と労力をかけている場合ではないと思ったからだ。私たちに残された時間をどのように過ごすか。できるだけ悔いの残らない時間にしなければならない。インターネットのどこを調べても、この病気は「予後不良」と書かれている。
それから亡くなるまでの2年2カ月、「ああすればよかった。なぜ、あんなふうに言ってしまったのか」などなど、悔やむことも多かったが、できるだけ楽しい時間にしなければと考えていた。入退院を繰り返す中で、調子のいいときには、二人であちこちに出かけた。主治医とは、いつでも連絡が取れるようにしておいた。もしかしたら、一度くらい外国旅行にもと思い、10年前に期限切れになっていた私のパスポートも新しくしたが、それが実現することはなかった。
病の宣告から1カ月後に、最初の孫が生まれた。孫も連れて、6人で出かけた伊豆の「熱川バナナワニ園」のことは、「キャッキャッ」と言って喜ぶ孫の声や風変わりな南国の木々とともに、みんなの胸に今もしっかりと残っている。 二人で、野山へバードリスニングに出かけたり、私の好きな植物園巡りをしたり、2年目の4月には沖縄へも行った。 沖縄は、夫の一生の仕事のきっかけとなった場所でもあった。沖縄の4月はもう夏。あちこちでデイゴの花が咲き始めていた。
やがて、病状が進行し、横になる時間が増えていった。私は、彼にベランダの花がガラス越しに見えるよう、植木の配置を毎日変えた。
塩谷治(しおのや・おさむ)が亡くなったのは、2014年6月23日、奇しくも沖縄慰霊の日だった。70歳だった。
近いうちに必ず亡くなるということが分かっている人と暮らすこと。それは例えようもなく悲しくつらいことだ。そして、私が長く生きれば生きるほど、さらにつらいことが起きる可能性が高くなる。それは、子どもに先立たれるという可能性だ。そんなの絶対に嫌だ。長生きも、ほどほどにと思う。
毎日新聞社発行「点字毎日(活字版および点字版)に掲載